(9)
紅い瞳を持つ飛竜は、チャーリーとヴァシルとを追って食堂から姿を消した。
いっときその場に静寂が落ちる。
トーザは千早丸の柄に手をかけたまま、食堂の壁が崩れて出来た大きな穴から中庭に踏み出す。小手をかざし見上げた空には白い雲が浮かんでいるばかり。チャーリー達の姿はもちろん、飛竜の影すら見当たらない。
しばらくそうして空の高みを睨んでいたトーザだが、もはや何事も起こらぬらしいと判断して、食堂の中へ戻った。
飛竜の尾にはたき飛ばされ壁に叩きつけられて転がっている大きなテーブルが目に入る。四本の脚を天井に向け、丸いテーブルは見事に真っ二つに割れてしまっていた。白いクロスが無残な姿を晒すテーブルに絡みついていた。クロスの白の上に砕けたカップのかけらが飛散している。
一瞬だけ眉をひそめてから、トーザは皆に向き直った。
「おのおの方、お怪我はござらんか?」
台詞の上では全員を等分に気遣いつつも、トーザが視線を向けたのはやはりシアンレイナ姫である。
国王陛下−ゴールドウィン、サースルーン、ギルバーとラルファグ、つまり姫君を除く全員は、やや強張ってはいるがそれでも冷静な表情を保っていた。トーザ自身も似たような顔をしていることだろう。しかし、シアンレイナ姫は明らかに怯え切っていた。ゴールドウィンはもう妹を抱きしめてはいなかったが、シアンレイナは兄の礼服の袖をしわになりそうなくらいきつく握りしめて震えている。
優しい青が溶け込んだグレイの瞳───シアンレイナ姫がトーザに顔を向けた。恐怖と混乱を色濃くにじませつつも変わらず美しい顔が今にも泣き出しそうに歪むが、彼女は涙をこぼすことも泣き言を漏らすこともせず、唇をきつく引き結んで自らの震えを何とか抑えようとしている様子。
「国王陛下、サースルーン王、飛竜は行ってしまったようですがここは危険です」
しんとした空気を破りギルバーが落ち着いた口調で提案する。
「シアンレイナ姫は大変なショックを受けられているご様子───ひとまず、奥へ…」
彼が言い終わるのを待たず。
ふっ、と影が差した。
反射的に振り向いた。
いつの間に忍び寄っていたのか、壁の穴から飛竜がまた室内を覗き込んでいる。
「ひッ…!!」
シアンレイナは自分の口を素早く両手で押さえつけ絶叫を飲み込んだ。
妹の手が離れた一瞬、ゴールドウィンが素早く走り出て飛竜の眼前に立ちはだかる。
灰色の瞳で毅然と飛竜を見上げ、鋭く長く指笛を吹き鳴らす。
「国王陛下!」
サースルーンが彼にしては珍しく焦ったような声で呼びかけた。
ゴールドウィンは魔道士ではないし、今は武器を持っていない。丸腰でモンスターと対峙するのは無謀というものだ、いかに自分の妹を守るためとは言え。
ゴールドウィンに限らず、誕生祝いの会食中であったためトーザ以外は武器となるようなものを持っていない。
この中では唯一サースルーンが魔道士並の威力を持つ攻撃魔法の使い手であったが、竜のウロコは魔法を弾く。竜に姿を変えられる善竜人間族としてそのことを熟知している彼は、いたずらに飛竜を刺激することを恐れて手を出さないのだろう。
とにかく国王陛下の下へと駆け出す寸前、そこにいるのが先刻の飛竜ではないことに初めて気づいた。目の色が違う。燃え盛る炎のような紅、ではない。陽光を照り返す夏の海のような、澄んだ蒼。その瞳は優しげでさえある。
意外な思いに打たれ、瞬間足が止まる。
トーザが立ちすくむのを待ちかねていたようなタイミングで、飛竜の真横から何物かが全力で体当たりした。
突然の攻撃に青い瞳を持つ飛竜の巨体が傾ぐ。吹っ飛ばされはしなかったが、予期せぬ方向からの襲撃に相当驚いた様子。体勢を立て直し、横合いから攻撃して来たモノに向き直った。
そこにはもう一頭の飛竜。目の覚めるような空色のウロコを持つ飛竜が、双翼を広げ険しい表情で、青い瞳の同族を睨み据えている。
「シルヴァリオン!」
若き国王陛下がよく響く声で愛竜の名を呼んだ。
「曲者だ! よろしく頼むぞ!」