第10章−9
(9)
チャーリーが出て行った後にはグリフが取り残されていた。
一緒に出て行くチャンスをものの見事に逃したのである。
チャーリーは確かにグリフォンを溺愛しているのだが、本人も意識しないうちにときとして最愛のグリフのことでさえもこうして忘れて行ってしまうことがあるのだ。
そういう場合というのは大抵ものすごく不機嫌だったり、何かに気をとられていたりしている。
今回は後者の理由が当てはまるのだろう。
「グリフ、お前の主人はまたお前を忘れて行ったでござるな」
トーザは椅子の上でグリフの方を向いて座り直し、手を伸ばして頭を撫でてやった。
グリフは大人しくされるままになっている。
そうしているところへノルラッティが引き返して来てメールの所在を尋ね、食堂にいる誰も知らないとわかると一礼してあたふたとした様子で出て行った。
「…あのメール・シードという賢者、一風どころではなく変わったところがありますな」
ゴールドウィンは灰色の瞳に愉快そうな色を浮かべてサースルーンの表情を窺った。
「何にしてもチャーリーは気に入っているようですし、彼女の言うように放っておいても実際害はないでしょう」
サースルーンは慎重に言葉を選んで答える。
彼の胸には先刻のブレスラウの言葉が引っかかって離れずにいた。
なんだか、人間じゃないみたい。
いかにも自信のなさそうな小さな声で、アクアマリンに宿る精はそう言った。
どの種族でも…何でもないような気がする。
ゴールドウィンは思い切った意見だと笑ったが、サースルーンにはそうは思えなかった。
人間族というのは曖昧な種族だ。
狼に似た容貌をしているのが狼人間族、グリーンドラゴンもしくはホワイトドラゴンに変身出来るのが善竜人間族、ブラックドラゴンもしくはダークドラゴンに変身出来るのが邪竜人間族…しかし、人間族とは一体何なのだろう。
種族としては目立った特徴がないのが特徴と、言えば言えるのだろう。
そして、どんな種族にでも帰属してしまえる───どんな種族でも自分達の中に内包してしまえるのが特徴だとも。
例えば、バハムートとドラッケンは互いに決して相容れることのない種族であるが、ヒューマンはそのどちらをも受容することが出来る。
ドラッケンの評判が決して良くはないものだとしても、自分達に被害が及ばない限りは人間族は邪竜人間族を受け入れようとしてきた。
善竜人間族には理解し難い和合の力───異質のものを包み込む優しさ───それがあるからこそ…自分達の中に何か他のものが混ざっていても気づかないのではないか…?
何か他のものが混ざっていても。
メール・シードはヒューマンではないのかもしれない−いや、きっとそうではないのだろう。
ならば一体何なのかということは、サースルーンには想像もつかないことだったが。
「コランド・ミシイズ、お前はあの賢者について何か知っているか?」
サースルーンの思索を破るようにゴールドウィンの声が響いた。
トーザのそばで立ったままグリフを眺めていたコランドがはッとなって彼に向き直る。
「メールはんのコトで知っとることでっか?」
「イブ・バームの友人だということは、メール・シードも王都か…少なくともファムランに住んでいる人間なのではないかと思うのだ。王都周辺を拠点に活動していたことのあるお前なら何かわかるのではないか?」
「そら、まぁ…噂ぐらいは聞いたことありますけど…」
「ほう、メール・シードのことは知っていたのか。そのわりには本人を目の前にしても反応が薄かったようだが」
「いやぁ、賢者ゆうのがもとから馴染みのない職業ですし…それに、ワイの興味のありそうなモンを持っとるとも思えませんしな、そーいうワケで知っとるのは名前と、史上最年少にして当代一の知識量を誇るセージいう評判と、一年前突然に王都に現れる以前にはどこで何をしていたのかまったく不明という風評と…まぁその程度のモンなんですわ」
記憶を手繰る間を挟むことなしにコランドは一息に言った。
「一年前に王都に来たのか…思えばちょうどその頃から私は王位に就いてそれから色々と忙しかったから、同じ街にいながらメール・シードのことを聞いた覚えもない。賢者で王都に住んでいるということはアントウェルペン・ベルの研究所に住み込んでいるのだろうが…」
「メール殿のことならイブ殿に訊いた方が早いのではござらんか?」
「ふむ、それもそうだな…」
後で尋ねてみるとしよう、とゴールドウィンが言葉を続けようとしたとき、食堂の扉が短く二度ノックされた。
ゴールドウィンはふっと言葉を切り、サースルーンはドアの方へ視線を上げる。
「入れ」
「失礼します」
そう言って食堂の中に入って来たのは、その場にいる全員は知っていようハズもないが城門の所でストーンゴーレムに遭遇した兵士の内の一人である。
「何かあったのか?」
兵士の顔にかすかな動揺の色を読み取ってサースルーンが声をかけると、兵士は緊張のためかところどころつっかえながらも城門の前であった一件を報告した。
「…そうか。それで、ケガ人は出なかったんだな?」
「はい。一人の負傷者もありませんでした」
「それはよかった。…しかし、今後も同じようなことが起こらんとは限らないからな、もう二度も続いているのだから」
誰にともなく言いながらサースルーンは椅子から立ち上がった。
「城下町の警備も厳重にしなければ。−国王陛下、失礼ながらしばらく席を外させていただきます」
「ああ、私にはお構いなく、サースルーン王。また夕食のときにでもゆっくりお話し出来るでしょうから」
軽く手を上げてみせるゴールドウィンに頭を下げてから、サースルーンが歩き出そうとしたまさにその瞬間。
「しっ、失礼しますッ!」
大声と共にターフィーが食堂に飛び込んで来た。
走って来た勢いで先に立っていた兵士の背中を突き飛ばしてしまったりなんかしつつ。
「どうした?!」
ターフィーの騒々しさにサースルーンの声も思わず大きくなる。
「そのっ、あの…邪竜人間族の皇子がこの城にかくまってもらいたいと、城門の所へ来られておりますがッ…」
「何ィッ?!」
さすがのサースルーンも驚きのあまり、ただでさえ普段から大きめの声を彼らしくもなく張り上げてしまった。
他の皆もサースルーンと同じくらいにビックリした表情でターフィーに視線を集中させた。
それまでずっと一体何を考えているのかぼけっとした表情でテーブルの上を見つめていたサイトは、『邪竜人間族の皇子』という単語を耳にした途端弾かれたように顔を上げた。
「ど…どうしましょうか」
全員の目が自分一人に向けられたことにたじろいだように少し身を引きつつ、サースルーンの方を真っすぐに見てターフィーが問う。
サースルーンは少しの間じっと沈黙していたが、一つ息をついてから毅然とした態度で指示を下した。
「ここにお通ししてくれ。…オルタンス、城下町の警備強化の件は近衛隊長に一任する。そのように伝えてくれ」
「はい!」
ターフィーとオルタンス、二人の兵士は同時にそう返し、サッと礼をしてから揃って食堂を走り出て行く。
その後ろ姿を見送ってから、サースルーンはさっき立ち上がったばかりの椅子にまた腰掛け直した。
それから、何気なく息子の方に目を向ける。
サイトはまたテーブルの上を見つめてうつむいていた。
ただしその表情は先程と比べると格段に複雑なものに変わっている。
生まれたときから意識し続けてきた『闇』の皇子。
もし『何も』起こらなければ、恐らく一度も顔を合わせることもなく過ごしたに違いない、最も遠く───そして、それでいて最も近い存在───。
心の準備も出来ない状態で否応なくそんな人物と会うことになったサイトの心境を推し量ると、気の毒に−心配にならずにはいられないサースルーンだったが、かと言って彼にだけ席を外させるワケにもいかない。
「サイト」
サースルーンが呼びかけると、サイトはすぐに顔を上げた。
「チャーリーを呼んで来なさい。他の皆はとにかく、彼女はここにいた方がいいだろう」
「…はい」
しっかりとした、けれども小さな声で返事をしてから、サイトは席を立った。
考えごとをしている最中に違いないチャーリーをサイトなんかが呼びに行ったら邪魔をするなと怒鳴りつけられそうに思えて、コランドなんかはどっちかというと扱いに慣れたトーザが行く方がいいのではないかと考えたりもするのだが、サイトもトーザも特に何も言わずにサースルーンの言葉に従う様子なので自分も何も言わないことにした。
「事態はだんだん紛糾して参りましたな、サースルーン王」
ゴールドウィンは陽気に言って溌剌とした瞳をサースルーンに向けた。
どうやら、なんてものではなく国王陛下は完全に今回の事件を楽しんでいるのかもしれない。
チャーリー達に較べると年長だが、それでも年若きゴールドウィンは、もっとややこしい事件が起こればいいのにと思っているのかと疑いたくなるような明るいカオを扉の方へ向けた。
彼のその無責任に思えるぐらいの好奇心の強さは、まだ人間族や善竜人間族など彼が朋友としている種族には何も悲惨な事件は起こっていないということから来ているのだろう。
流血をこの目で見ていないから、楽観的でいられる。
今度の件に加担していない邪竜人間族もいるのだと思いやることが出来ないワケではなかったが、それも好奇心の旺盛さを萎えさせるほどの切実さをもって胸に迫って来るほどのものではまだなかった。
「かくまってもらいたいとは、どういうことだろう…」
誰に意見を求めるでもなく、サースルーンは呟いた。
様々な人物の出入りしたドア…そして、もうすぐまた色々な人物が出入りするだろう扉を眺めやりながら。
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