第10章−7
(7)
「…逃げられましたか」
白髪の魔道士が呟く。
「大方、行き先はバルデシオン城でしょうね」
ガールディーは夢から醒めたばかりのようなぼんやりとした顔でゆっくりと腕を下ろした。
周囲を支配した暗黒をどこかうっとりとしたような目で眺め、呟く。
「闇は、いいものだ…」
「追っ手を派遣しますか?」
耳元で発せられた声にも眉一つ動かさず、振り向きもせずに答える。
「形式的に差し向けておこう。何もしなければかえって怪しまれるだろう」
白髪の魔道士はその言葉を受けて、後ろにいた兵士に何事か告げた。
言われて、兵士達は階段を上がって戻って行く。
魔道士はガールディーに再び顔を向けた。
彼はまだ地下牢の暗闇を見つめていた。
「さっき貴方は私を止めましたね。最初からこうするつもりだったのではありませんか?」
「………」
「地下牢にかかっていたプロテクトの魔法も外されている。貴方がなさったのでしょう?」
「…こうするつもりだった? いや…」
ガールディーは漆黒の空間に視線を据えたまま、唇を歪める。
自嘲的な…それでいて、奇妙に勝ち誇ったような微笑が口許に貼りつく。
「俺は…わかっていただけだ。こうなるということを、最初から」
「人の行動によって運命が変わるのか、それとも運命によって人の行動は変えられているのか。貴方の言葉は一つの謎ですね。貴方は一体、闇を愛しているのですか、それとも憎んでいるのですか?」
「…愛している…そして、憎んでいる。どちらにしても、闇はいいものだ」
ガールディーは闇の空間に手を差し伸べた。
冷たい風に枝からもがれ吹き飛ばされた枯れ葉を受け止めようとするような、仕草。
そして、続ける。
「闇の中では何も見なくていい…しかし、すべてを見なければならない。その寛大さがいい…その残酷さもまた、いいものだ」
「今のところすべて貴方の思惑通りにことは運んでいます。これからもきっとそうなるでしょうね。あのチャーリー・ファインでさえ、貴方を止めることは出来ないでしょう」
ガールディーは何も言わずに手を下ろした。
まだ振り向かない。
「たとえ八つの宝石を首尾よく集めたとしても───いや、そのときにこそ、貴方を止めることが出来ないことを思い知るのでしょうね。…どちらも、到底───」
「誰かが死ななきゃならんのなら」
ガールディーが唐突に口を開き、魔道士は口を閉ざす。
ガールディーの声の調子が変わっていた。
ぼんやりと頼りなげに呟いていたのが、怒りと苛立ちをハッキリ押し出した荒々しいものに変わってしまっている。
「俺が死ねばよかったんだ。あのときに───無駄に長生きなんか、するモンじゃない」
「しかし、こうなることは当然わかっていたのでしょう」
「…見えていなかったのか、見ないようにしていたのか…今の俺には何もわからない。俺にはもう…何も見えない」
「闇に包まれてしまったように?」
「…闇の中に…中でも、見えるものは…あったんだ。確かに…俺の…」
「そろそろ上に戻りましょう。もうここには何もありませんからね、長居は無用です。さあ、行きましょう」
「───ああ…」
ガールディーは力なく闇に背を向けると、白髪の魔道士の後について石の階段を上り始めた。
二十数段上がったところで、ふと振り返る。
足元を満たす闇。
闇の中に、俺が見たのは…。
遠い昔の記憶が暗黒に重なり、一瞬にも届かないつかの間の幻を結ぶ。
もう、いつのことなのかもわからない…遠い…遠い、過去の、亡霊───手を伸ばせば、すぐそこに、浮かぶ…。
「行きますよ」
短い言葉が幻覚を破った。
ガールディーはハッと我に返ると、二、三度激しく頭を振ってから大きくタメ息をつく。
俺は正気なのか?
本当に世界を滅ぼすつもりなのか。
チャーリー・ファインのことが頭に浮かんだ。
飛ぶように過ぎた十四年間。
チャーリーを育てるようになって、俺は変わった。
初めてアイツが俺に笑顔を見せてくれた日のことは今でも忘れられない。
そして、チャーリーが聖域の洞窟の島を出て…アイツがいなくなってから…俺はまた変わった。
それは確かなことだ。
…俺は正気なんだろうか。
再び階段を登り始めながら、ガールディーは自問する。
本当に世界を滅ぼすつもり…なのか。
俺は世界を滅ぼしたいんじゃない。
ただ…約束を果たしたいだけなんだ。
もう一度会える。
もう一度…必ず、会えるから。
これで最後…なんてコトはないから。
どれだけ時間が流れようと、絶対に…。
───また、会えるから。
懐かしい声。
今も忘れられない。
鼓膜に染みついて、片時も俺の記憶から離れることのない…。
どうしてこうなってしまったんだろう。
闇の中では何も見なくていい。
しかしすべてを見なければならない。
その寛大さ。
その残酷さ。
俺は見えていなかったのか…。
それとも、見ていなかったのか…?
………。
何も、何もわからない…。
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