第15章−9
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(9)

「おにーちゃん達、まだかなァ」

 外から入ってすぐの部屋のソファセットに腰を下ろしたリンドがつまらなさそうに呟く。
 向かいのソファに座ってギンレイから借りた本を読んでいたノルラッティが顔を上げた。

「まだお昼にもなってませんよ。早くとも、帰って来るのは夕方くらいになるんじゃありませんか?」
「…そーかなぁ」
「退屈そうですね」
「う〜ん…あっ、そうだ! レイ君誘ってゆきだるま作って来ようっと」

 自分の思いつきにぱっと表情を明るくして、リンドは勢いよく立ち上がった。

「レイ君、外にいたよね」
「ええ。出て行ったきり、戻って来てませんよ」
「おにいちゃん達が帰って来たらびっくりするくらいおっきなの作ろうっと!」

 リンドは長い髪をなびかせて飛び出して行った。
 コートも着ずに。

 邪竜人間族は雪の寒さには慣れていないハズなんだけど…子供って、どの種族でも大して変わらないものなのね。
 思いながら、読みかけの文章に目を落とす。

 することがないのなら、とギンレイが持って来た本。
 十年程前に書かれた恋愛小説だ。
 表紙は色褪せ擦り切れてしまっているが、粗末に扱われていた様子はない。
 ギンレイのものなのか、それとも母親のものなのか。
 ノルラッティは既に読んだことのある作品だったが、なかなか面白いストーリーだったと記憶していたので、暇潰しにもう一度読んでみることにしたのだ。

 ページをめくろうとした手がふと止まった。
 左側のページの中ほどに、いつの間にか赤いマル印が出現していた。
 さっき、そこを読んだときには確かにそんな印はなかった。
 不思議に思い、赤く囲まれた文字に目を向ける。

『早く』

「…?」

 何、これは、と首を傾げるより早く、次の赤丸がついた。
 丸い印は次々に現れ文字を拾って行く。

『逃げ』『ろ』

『すぐ』『そこに』

『危ない』

 ノルラッティの目の前で、ページが一人でにめくれた。
 風もないのに。
 新しいページで新しい単語を選び出す。

『敵だ』

『騙され』

『操られて』

『銀』『レ』『い』

「…?!」

 断片的に綴られる文章の真意を掴みかねて、ノルラッティは戸惑った。
 そんな彼女の困惑を叱りつけるように、またページがめくれる。

『弟』『を』

『助け』『ろ』

『ただ一人』『正しい』

『早く』

『動け』

 手の中で本がふわりと浮き上がり、バタンと大きな音を立てて閉じられた。

 その音がノルラッティには、平和な恋愛小説の文中では滅多に使われていない『!(感嘆符)』を示しているように聞こえた。

 弾かれたようにソファを立つ。
 膝の上を滑った本が床に落ちる。

 どういうこと?

 突然の出来事に、焦りが先に立って行動することが出来ない。

 逃げろ…、逃げるって、どこに?
 それに何から逃げるのか…もしかして、先日村を襲ったドラッケン達がまたやって来るのだろうか?
 だとしたら、確かに逃げなければ…でも。
 待って。
 騙され…操られて…ギンレイ、ギンレイさんが操られている?

 私達はそれに騙されている?
 彼女は敵なの?

 ノルラッティは思わず意味もなく周囲を見回した。
 そばには誰もいない。

 ギンレイは一階奥の自室にいる…何かあったらいつでも呼びに来て下さいと、微笑んで彼女は言った…。

 …それから…弟?

 ───レイドフォードのことだろう、当然。

 彼だけが操られていない。
 その言葉の意味を知って、ノルラッティの顔色がサッと変わる。

 というコトは、つまり、他は皆操られている!
 大変だ。

 …けど…、本当に?

 ギンレイさんの様子におかしなところなんてなかった。
 大体、このメッセージを送って来たのは誰なの−−−?

 立ち尽くしたまま動こうとしないノルラッティに業を煮やしたように、本が再び浮かび上がった。
 ノルラッティの目の前でページが次々にめくられ、赤い丸が素早く文字を拾い上げてゆく。
 完成した単語を読み取ったとき、ノルラッティは一層の疑惑に捕らわれていた。

 …しかし、駆け出した。
 ドアを開けて、とにかくリンドさんの所へ。

 赤い印がたどった文字───ガールディー・マクガイル。

 敵の言うことを信じようとしている?

 でも…とどめを刺せるはずのチャーリーをそのままに姿を消したガールディー。
 あのとき、先生に戻ったんだと言ったチャーリーの瞳。
 何故だか、信じてみたくなっていた。
 皇子が、あんなに慕ってらっしゃる方の、先生だから?


 井戸のそばに屈み込んでいたレイドフォードを、リンドはすぐに見つけた。

「レイくんッ!」

 呼ぶと、顔を上げてこっちを見た。
 リンドは走ってそばまで行った。

「あのね、…何やってんの?」

「何って…」

 レイドフォードは身体をずらして自分の手元にあるものをリンドに示した。
 そこには雪で作られたうさぎの像があった。
 雪を半球形に盛って笹の葉を刺してはい出来上がりの雪うさぎではない、本物のうさぎだ。
 前足を上げて辺りの気配をうかがうように耳を立てている。
 本物と見間違えてしまいそうなくらい、出来が良かった。

「うわぁ! これ、レイ君が作ったの」
「そうだよ」
「すっごおい! 生きてるみたい、かわいいッ!」

 リンドの喜びようにレイドフォードも嬉しそうに笑ってみせる。

「上手なんだねー」
「この村じゃこんなの作れて当たり前だぜ」
「へえ、そーなんだ…」

 リンドはふと顔を上げた。
 レイドフォードも同じ方向に目をやる。
 さくさくと雪を踏んで二人のいる井戸端へ誰かが歩いて来る。

「…あれ。フォーバル兄ちゃん」

 今朝トーザとラーカを連れて氷の洞窟へ行ったハズのいとこが一人で歩いている。
 二人の姿はない。

「おにいちゃんとトーザさんは?」

 リンドが問う。
 フォーバルは真顔で二人を睨みつけたまま、無言で進んで来る。

「…何か、ヘンだ」
「うん…」

 レイドフォードは立ち上がると、リンドを庇うように一歩前に出た。
 邪竜人間族の女の子が自分よりもずっと年上なのは知っているが、やはり女を守るのは男の役目だから。

「兄ちゃん、どうしたんだよ。コワいカオしちゃって…」

 フォーバルはコートのポケットに歩きながら手を突っ込んだ。
 左ポケット。
 そこに何があるか、レイドフォードは知っている。
 左利きのいとこが万一の時の護身用のナイフを入れている場所。

「逃げろ!」

 本能的に危険を悟り、リンドの手を掴んで村の奥へと駆け出そうとする───脅えたように、レイドフォードの足が止まる。
 リンドも小さく悲鳴をあげて棒立ちになった。

 家々から、村人が姿を現していた。
 ひっそりとした沈黙に占領されていたこの村の住人達をリンドは初めて見た。
 誰も出て来ないことに疑問を感じなかったワケではないのだが…。

 人々は手に手に刃物かそれに準ずる物を握り締めていた。
 フォーバルと同じ無表情さで、───ゆっくりと二人に向かって来る。

「嘘だろ…みんな…」

 レイドフォードが動揺して後退る。
 彼の右足がせっかく作ったうさぎの像を踏み潰す。
 しかし、そんなことには気づきもしない。

「トゥールネ! ファーニア! 冗談はよせ! ロタール、やめろぉ!」

「レイ君!」

 リンドはレイドフォードの腕を引っ張った。
 フォーバルがもうすぐそこまで迫っている。
 どこにでもいい、逃げなければ危ない!

 そのとき、宿屋の扉が音を立てて開き、ノルラッティがつんのめるように飛び出して来た。

 フォーバルが一瞬そちらに注意を奪われる。
 その隙をついて、二人は宿屋に向かい駆け出した。

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