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《第二十章》
(1)

 苦しい。
 ただむやみに苦しい。
 苦しくてたまらない。

 全力疾走なんてそんなに長時間続けられるものじゃない。
 じわじわと速度が落ちている。

 角を左へ折れた。
 東…いや南だったか。
 もう正確な方角がわからない。

 数え切れないくらいの回数右折と左折を繰り返したから。
 最初のうちはまだかろうじて把握出来ていたのだが。

 こんなことでは盗賊失格だ、おじいちゃんみたいな立派なシーフになるのが夢なのに。

 現在のこの状況においてはどうでもいいとしか自分でも思えないようなそんな考えを頭に浮かべて、せめて一瞬でもこの苦しさから意識を逃がそうと試みた、途端。

 前を走っていたコランド・ミシイズが振り向きざまに結構な勢いでタックルを食らわせてきた。
 不意をつかれてあえなくバランスを崩したティリア・シャウディンは、そのまま彼に押し倒されるような格好で通路に倒れ込む。

 固い石の床に背中と腰とをしたたかに打ちつけて、肺の奥からなけなしの空気を全部吐き出してしまった。
 突然の事態に狼狽し軽い呼吸困難に陥りかけたティリアを、地面に伏せた次の瞬間には元通り立ち上がっていたコランドが強引に引き起こす。

 身体を起こしたときに目の前が何だかすうっと暗くなったような気がしたが、悠長に床に転がっている場合ではないのだと自身に強く言い聞かせ、遠のきかけた意識を気合で連れ戻して───再び駆け出す。
 コランドに手を引かれたまま。

 さっき具体的に一体何が起きたのか、ティリアにははっきりとはわからなかったが−何せ彼女には何も見えなかったし何も聞こえなかった−おそらく壁か天井か床から矢だの槍だの毒針だのが飛び出してくる罠でもあったのだろう。
 コランドはわざとそれを作動させて、罠を解除する時間をかけずに進路を切り開いたのだ。

 彼がそのような行動をとるのはさっきで約十回目ぐらいだったのでいい加減見当はつく。
 その度に突き飛ばされたり押し倒されたり、一度などは足を引っかけられて転ばされたりもした。
 最初の数回は訳がわからず腹を立てたりもしたが、コランドが彼なりのやり方で自分をトラップから守ってくれているらしいと気づいてからは、剣呑なまなざしでいちいち睨みつけるのはやめておくことにした。

 十字路を直進。
 その先を右に曲がった直後、すごい力で突き飛ばされる。

 ティリアは左の壁に肩から叩きつけられ、コランドはその反動を利用して右の壁に背をつける。
 一秒前まで二人が立っていた空間を人の頭ほども大きさのある火球が唸りをあげて突き抜けて行った。
 燃え盛る火の玉はちょうど十字路に差しかかったところで嘘のようにさっぱりと消え失せ、無意識に火球の行方を目で追ってしまっていたティリアは脆いものが砕ける音に身体ごとそちらへ向き直る。

 天井から不自然に吊り下がっていた小さな燭台に、コランドが投げたナイフが命中したところだった。
 銀の受け皿が、鮮やかに赤いロウソクもろとも床に落ち、一際強く燃え上がる。
 コランドは臆することなく踏み込んだ。
 見る間に炎に包まれた燭台の残骸へと一気に距離を詰め───蹴り飛ばす。

 火の粉を散らしながら通路の遥か前方まで飛んで行ったそれは、棒立ちのまま見守ってしまうティリアの視線の先で、突然爆発した。

 衝撃と熱風が容赦なく襲いかかってくる。
 反射的にその場から逃げようとして壁にぶつかり、この狭い通路では左右に逃げ場なんかなかったんだったとわかっていたハズの事柄を呆然と反復しているところへ、コランドが駆け寄って来た。
 爆発に背を向けて自分の身体を盾にして、ティリアを庇ってくれる。

 爆音の余韻が消えるのを待たず、コランドはまたティリアの手を取って走り出した。
 先刻の十字路へ引き返し、次はそこから左へ。
 自分達がどちらに向かって移動しているのかますますわからなくなる。

 その通路を半ばまで来たところで徐々に速度を緩めて、コランドはやがて足を止めた。
 顎をわずかに持ち上げるようにしてぐるりと周囲を見回し、それから目を閉じて耳を澄ます。

 彼の邪魔になってはいけないと思いティリアは息を止める。
 全身が新鮮な空気を欲してやまないこのような状態で呼吸を抑えつけたりするのはかなりの自殺行為で実際また失神しかけたが、ティリアが倒れる前にコランドは目を開けた。
 そして、くたびれ果てた様子でその場にへたへたと座り込んだ。

「きゅ、休憩〜。お疲れさん〜…」

 ティリアを和ませようとしているのかあるいは取り繕っている余裕がないのか。
 完璧に気の抜けた口調でそう宣言する。

 その台詞を聞き届けてから、ティリアもぺたんと地面に腰を落とした。
 溜めていた息を一度に吐き出して、続けて浅い呼吸を何度も繰り返す。
 少しでも多く少しでも早く、新しい酸素を全身に行き渡らせたい一心で。
 だらしなくへたばったまま、コランドも乱れた呼吸を整えるのに専念していた。
 走っているときは全然息を切らしているようには見えなかったのにと、少し意外な思いでその横顔を見つめる。

 何もしないまま一分が経過した。
 ようやくどうにか落ち着いてきた。

「ほ、他のみんな…だ、大丈夫、かなァ?」

 自分の安全が確保されたと判断出来て初めて、その質問が口をついて出て来る。

「う〜ん…どうやろ…カディスはんと一緒におってくれたらええんやけど…」

 決して楽観視はしていないとありありとわかる沈んだ語調でコランドがそう応じて、二人の間には微妙な沈黙が落ちた。

 『敵』の襲撃を受けたのは『盗賊の洞窟』に足を踏み入れて間もなくのことだ。
 十分と経ってはいなかった。
 もちろん待ち伏せや不意打ちに対する注意は払い過ぎるくらい払っていたのだが、相手の数に負けた。

 入り口方向から殺到して来た大量の兵士。
 まさしく大量の。

 通路がぎっしり埋まっていた。
 あの状態ではどのような武器であれ満足に扱えなかっただろうが、無言でひたすら押し寄せてくる無数の人間の波は剣や槍を自在に使いこなせるよう訓練された兵士の一団よりもある意味ずっと怖かった。

 最初の数分は応戦したが、倒れた仲間の身体を平然と踏み潰して進んで来る敵の列には途切れる気配がまるでなかったので、戦って状況を打開することはすぐにあきらめた。

 群れを構成する兵士の一人一人は装備している武器も防具も貧弱かつ粗末なもので恐れるに足りない存在だったが、それが数十人単位でただ一直線に突っ込んで来るのだから侮れない。
 ほぼ一撃で相手を撃破し続けたとしても、度を越した連戦になれば疲労はじわじわと蓄積されてどのような人間でも次第に動きは鈍ってくる。
 それでも意地になって戦い続けようものなら、思わぬ隙が生じて深刻な事態を招く可能性がどんどん高まってゆく。
 それに、この人数に四方を囲まれでもしたら抜け出す術はなくなってしまう。

 そういった要素を考え合わせて即座に撤退に踏み切ったまでは良かったが、逃走は容易なことではなかった。
 ここは『盗賊の洞窟』。
 別名『罠の洞窟』。
 逃げるティリア達の行く手には無数のトラップが立ち塞がる。

 コランドの師匠でありティリアの祖父であるワイトマンが記した地図のおかげで罠の種類と設置されているおおよその場所がわかるのは有り難かったが、追われる身の上ではそこに罠があるとわかってもいちいち解除している余裕がない。
 容易に回避出来ない大がかりなトラップのある道を避け、一度作動させれば一定時間沈黙するような単純な罠のある通路へ向けて進路をとる。
 そうして最初は一団となって走っていたのだが、洞窟の奥へ入り込むにつれて仕掛けられている罠の難易度が上がり始め、全員が通過する前に再び動き出してしまったり思いがけないタイミングで連鎖して通路を通行不能にしてしまうような罠が現れ始めて…いつの間にか仲間達は散り散りになってしまっていた。

 ティリアとコランドは再起動する罠に対処するため最後尾を走っていたのだが、他の皆がどこでどのようにはぐれていったのかはよくわからない。
 次から次へと作動する無数の罠の対応に追われ、同時にすぐ背後から迫る殺気の重圧に晒されて、他の者の状態にまで気を回していられなかったからだ。

 はっと気づいたときにはティリアとコランドは二人きりになっていた。
 仲間達の姿が消えていたことに驚いて、自分達がおかれた状況を再確認しておこうと後ろを振り向く。
 追っ手の数も少し減ったように見えた。
 きっとアシェス・リチカート達の追跡に回ったのだろう。

 それからしばらくコランドに先導されるまま洞窟内を駆けずり回った。
 どのぐらいの時間が経ったのかもやっぱりよくわからないが、とにかく追跡者達を振り切ったらしい。
 よく逃げ切れたものだと、まるで他人事のように率直に感心してしまう。

 沈黙のままどこまでも追いすがって来る兵士達は道中に仕掛けられた罠にはまるで構う様子がなかった。
 前を走る仲間が床から突き出した槍に無残に貫かれようが後ろにいた同胞が吊り天井の下敷きになろうが何の反応も見せず速度を落とすことすらせず、ただ淡々と走り続ける。
 激しい恐怖と嫌悪に駆られた。

 冷静さを失いやみくもに暴走しそうになったティリアがこうして無事でいられるのは、全部コランドのおかげと言えた。
 仲間とはぐれてしまっても解除をしくじれば即死してしまうような危険な罠に遭遇しても、取り乱さずに目の前の状況に的確に対応出来る彼がいたからこそ、ティリアは数か所の打ち身とすり傷を負っただけでこうして安穏とへばっていられるのだ。

 床に座り込んだコランドは何もない中空に視線を据えて、真剣な表情で何事か考え込んでいる。
 はぐれた仲間と合流する方法を考えているのだろうか。
 祖父が記した地図と現在位置を照らし合わせて次に進むべき道順を頭の中に描いているのだろう。

 コランド・ミシイズとカディス・カーディナル、二人の盗賊(シーフ)は『罠の洞窟』の地図を数秒見ただけで、そこに書かれてあったことを全て記憶してしまっていた。
 ざっと視線を走らせただけだったのに、二人の盗賊は自分達には地図はもう必要ないからと言って、方向感覚の優れた狼人間族(ウェアウルフ)のラルファグ・レキサスにそれを持たせた。
 万が一自分達に何かあったときには、ラルファグが皆を連れて洞窟を脱出出来るようにと。

 同じ盗賊のはずなのに、ティリアには一目見ただけで地図の全部を暗記するなんて芸当は出来ない。
 出来る日が来るとも今はまだ思えなかった。

「うまいこと、まけたのはまけたみたいやな」

 コランドが不意に呟く。

「みんなを、探しに行かなくちゃ」

 ティリアの提案にコランドは短くうなずき、身軽に立ち上がった。
 慌てて後に続こうとしたティリアにコランドがごく自然な動作で手を差し伸べてくれた。

「……ありがと」

 彼の手を取って立ち上がってから、ティリアはこの洞窟に入ってからのことも色々ひっくるめて礼を言う。
 ティリア自身にも聞こえないくらい小さな声で。
 その台詞はやっぱり届かなかったのだろう、コランドは何も言わずにティリアに背を向けると慎重な足どりで引き続き通路を進み始めた。

 コランドの手は男にしては小さくて指も細くてやけに頼りないものなのに、それでも何故か、ティリアにはとても力強く感じられた。

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