(2)
「そこ、気をつけろ。足ひっかけるなよ」
カディス・カーディナルが指差す先に、白く光る糸のようなものが張られているのが見えた。
普通に歩いていたのでは視界に入って来ないような低さ、けれど無意識に踏み越えることは出来ないような高さ。
絶妙の位置に仕掛けられたいかにも怪しげな糸を、一体どのような目をしているのかいともあっさりと発見して平然とまたぎ越して行くカディスに倣い、ラルファグ・レキサスもその罠をゆっくりと回避した。
「アンタも気をつけろよ」
振り返って声をかける。
「はっ…はいっ、気をつけます…っ!」
必要以上に緊張してしまっていると一発でわかる上ずった声でジェン・ユースが返事をする。
彼女は深刻極まりない表情でカディスが示した辺りを何度も確認して、ラルファグよりも慎重なやり方で白い糸をまたいで…糸を越えるときに踏み出したのとは逆の足をトラップにひっかけた。
「あ」
ラルファグとジェンは同時にそんな声を発して顔を見合わせる。
直後通路の前方から金属で出来た大きな何かが床の上にあった何かに結構激しくぶち当たったような大きな音が聞こえた。
「………」
恐る恐るそちらに目を向けると、一抱えもありそうな大きなブリキのタライの下でカディスが倒れていた。
「だ…大丈夫かッ?!」
「あっ、あの、ごめんなさい! ごめんなさい!」
ラルファグとジェンが駆け寄る前に、カディスはタライを片腕で跳ねのけて起き上がった。
通路を転がって行ったタライが少し離れたところで倒れてまた大きな音を立てて、ジェンがびくんと身をすくめる。
緋色の長い前髪の下からかろうじてのぞく瞳で善竜人間族の少女をきつく睨みつけ、カディスはラルファグを脇へと押しやり彼女に詰め寄った。
「おい、アンタ! いい加減にしろよ、さっきから!」
「ごっ、ごめんなさい…ッ!」
カディスの険悪な視線から身をかわすようにジェンが頭を下げる。
全身全霊で謝罪しているのだとありありとわかる真摯な態度で許しを乞うが、邪竜人間族の怒りは容易にはおさまらない。
「ワザとやってんのか?! オレを殺すつもりかよ!」
「そんな…わっ、わざとなんて…」
「こっちは大人しく協力してやってんじゃねえか! お前らがその気なら───」
「その辺で落ち着け、カディス!」
ラルファグは慌てて二人の間に割って入った。
ジェンをその背に庇うようにして珍しく熱くなっているカディスに向き直り、なるべく論理的に聞こえるように抑えた声で話しかける。
「こんなトコでわざと罠にかかるヤツなんかいるワケないだろ? 下手すりゃ自分も含めて全滅しちまうような危険なトコなんだからよ」
「じゃあ何でそいつはオレが注意してやったトラップ全部作動させるんだ! フツーそんな糸あるってわかってたら足なんかひっかけねえだろ?! 故意にやってるとしか、オレに対する悪意があるとしか思えないだろうが!」
「いや、だから、それはな」
「わ、わたし…わたし、悪意なんて…」
背後から聞こえるジェンの弁解が途中で切れて嫌な感じに声が湿った。
正面に立つカディスが露骨に表情を引きつらせたのを見てある程度予想は出来たが、身体ごと振り向くとジェン・ユースは案の定、両手で顔を覆って泣き出してしまっていた。
「あっ、悪意なんて…わたし、わたし…」
ひっくひっくとしゃくりあげながら言い訳と謝罪を続けるジェン。
双子の妹ジル・ユースの紹介がもし正しければ彼女は善竜人間族の中でも指折りの実力を持つ剣士であるはずなのだが、細い肩を小刻みに震わせて必死に泣き声を殺しているさまはとてもそうは見えない。
やはりアレは単なるハッタリだったのだろうか。
とか今はそんなコトを疑っている場合ではなくて。
「な、何も泣くコトないだろ? 悪気はないってホントはカディスだってちゃんとわかってんだから、別に泣いたりなんか…そっ、そうだろカディス? つい言い過ぎちまっただけだよなッ?」
すがるようにカディスの同意を求めた。
求めたと言うよりは異論があっても胸に隠してとにかく今はうなずいておいてくれと瞳で懇願してみた。
でないと事態が泥沼に。
しかしその想いは通じなかった。
「オ…オレは泣いてもごまかされたりしないからな! 大体わざとでなければ何で全部の罠がオレ一人に」
「……わざとだなんてするはずないじゃありませんか……」
ややうろたえ加減の邪竜人間族の盗賊の言葉を遮って、唐突にジェンが発言した。
ぼそりと、低く。
大きな声ではなかったのに奇妙な存在感を伴って耳に飛び込んで来るような独特の声音で。
「……そんなことするはずないっていってるのに……あやまってるのに……」
三人を取り巻く空気が一気に冷えた、ような気がした。
気温の低下を補うように、ジェンの身体からゆらりと不穏な気配が立ち昇る。
ラルファグとカディスが反射的に戦闘態勢をとってしまったほど、強烈な殺気。
目で見えるんじゃないかと思えるぐらいに濃厚で圧倒的な。
「……はなしをきいてももらえないなんて……そんなのって……」
どこまでも暗い負の感情のみが込められた囁きを続けるジェンはめちゃくちゃ怖かった。
何だかよくわからないんだがとにかくこのままでは殺されると思った。
殺されるというか消される。
この世にいた痕跡すらも消し去られる。
そんな恐怖がリアルに感じられた。
謝れ。
とにかく謝れ。
今すぐ謝れ。
ほとんど涙目になってカディスの顔を見る。
カディスにもラルファグの強い想いは今度はきちんと届いたようだ。
「いやそのまあアレだ。さっきはオレもちょっとばかりやっぱり言い過ぎたな、ラルファグの言う通り」
普段は無愛想で気だるげにしているカディスが彼なりのベストだとはっきりわかる明るい微笑を浮かべてジェンを慰めにかかる。
前髪が顔の半分近くを隠しているにも関わらずひしひしと伝わって来る朗らかさにある意味感動しつつも、さりげなくオレを巻き込もうとするなよと抗議したい気持ちで一杯のラルファグである。
「そうだぞカディス、やっぱさすがにさっきのアレはほら明らかにヒドかったぞー。いくら何でもちゃんと謝っとかなきゃ、なッ?」
「ホント申し訳ない失言だった、この通り謝る。悪かった。オレもつい色々あって気が立ってて、いやだからって女性にあたるなんて最低なんだが、とりあえず次からは気をつけるようん」
自分達でさえも心が冷え冷えとしまいそうなこのうえもなくぎこちない台詞だったが、それを聞いてジェンがおずおずと両手を離して顔を上げる。
未だ潤んでいる緑の瞳で二人の表情をうかがってくる。
ここぞとばかりにラルファグは優しい笑顔を見せた。
当然カディスもそうしていることだろう。
きっとこれほどまでに素敵な微笑みを他人に向けたことは二人の人生において一度もなかっただろうと思えるくらいのとびきりのスマイルでジェンを見返す。
ジェンがようやく表情を緩ませた。
もちろんラルファグとカディスも深く深く安堵のため息をついた。
「本当に申し訳ありませんでした…あの、もっと気をつけるように、します」
「そ、そうだな。そうしてくれると有り難い。この洞窟の中には下手すると生命を落としかねないような罠もあるんだからな」
「え? ここにある罠って全部今までひっかかってきたようなモンばっかじゃないのか?」
「…違う。こっちはまだ駆け出しのシーフ用順路だからあの程度で済んでるだけだ」
「あの程度…」
ラルファグはここまでに起きた出来事を回想した。
先刻のような金物のタライが頭上から落ちて来たり壁の一部分がいきなりめくれてぶち当たって来たりどこからともなくタライと同じ材質で出来た四角い缶が飛んで来たり。
全部先頭を歩いていたカディス・カーディナルの身の上に振りかかった災難でありラルファグとジェンはその都度這いつくばり打ちひしがれている彼を気の毒な思いで眺めやったものだ。
心底かける言葉もなく。
「盗賊って大変なんだな」
「そんな遠い目でオレを見るな」
「でもコランドがひっかかるぶんには似合いそうだ」
「それは言えてる」
「他の皆さんはご無事でしょうか…」
落ち着かない様子で周囲に視線をさまよわせながら、ジェンがふと表情を曇らせる。
「…途中でオレ達を追って来る連中の数、かなりあからさまに減ったよな」
「皇子か、コランドか。奴らの目的はどちらかだろうな。オレ達はあっさり逃げ切れて当然だろう」
「に、逃げ切ってしまってはいけません! 皆さんを助けに戻らなければ!」
「当たり前だ。しかしオレ達から連中の注意が逸れたのは好都合だな。何故なら背後から忍び寄って不意をつ……」
カディスが複雑なカオで言いかけた台詞を飲み込んだ。
たとえ悪気がなかろうとジェンが存在するとわかっている罠にひっかかりまくっているのは、事実だ。
むしろ本当にわざとでないとすればかえって余計に厄介なことになる。
はっきりと肉眼で確認出来るイージーな仕掛けにすら本気でひっかかってしまう彼女を連れて、この洞窟で隠密行動をとるなどと、不可能ではないのか。
カディスがそのように考えただろうことはラルファグにも瞬時に察知出来た。
ラルファグも同じことを思いついたからだ。
そう、まるっきり不可能だ。
背後から忍び寄るどころかこちらの接近を早々に悟られて逆に待ち伏せされてしまうだろう。
ジェンを連れて歩くのは危ない。
自分達にとっても、彼女自身にとっても。
ではどうする。
ジェンを置いて行くのか?
ラルファグとカディスはどちらからともなく顔を見合わせていた。
そんなこと、出来るワケがない。
いくら言葉を選んだとしても結局は「足手まといだからついて来るな」と言っているに等しいような提案など出来るワケがない。
ジェンにそんなコトを言うぐらいなら待ち伏せでも何でもされた方がまだマシだ。
正直に言おう、殺されたくないと。
「あの…どうか、しましたか?」
「い…い、いや、全然何でもない。何一つ問題はない」
「とにかくじッとしてても始まらねえし、コランド達との合流を急ごうぜ」
「はいッ!」
凛とした声で力強く返事をするジェン・ユース。
絶対に絶対に気をつけますからと熱意あふれる口調で宣言した彼女だったが、そこから五十メートルと移動しないうちにまたカディスに教えられたばかりの罠を作動させてしまい、今度はいきなり天井が開いて大きなバケツに入れられた水が降りかかって来たのだが、それを見て慌てて逃げようとしたラルファグにオレばっかりがこんな目に遭ってたまるかなどと叫びながらカディスが組みついてきたため、二人揃って見事にずぶ濡れになってしまった。
「あの…だ、大丈夫、です、か?」
立っている位置の関係で水滴の一粒も浴びなかったらしいジェンがとてもとてもすまなそうに尋ねて来る。
「大丈夫だ…ただの水だから…」
脱力し切った声でカディスが応じる。
全身からぽたぽたと冷水−実際それは心臓が止まりそうなくらいよく冷やされていた−を滴らせている二人を、ジェンは今にも泣き出しそうなカオで十数秒ほどじっと見つめていたが…やがて無理に笑みを形作ると、強引なまでの明るさで口を開いた。
「あ、あの。これってつまり、お二人とも…ええと、『水もしたたるいいオトコ』って言うんですよね、こういうの」
「………」
「………」
「…え、えっと…」
「いや…いいんだ…気を取り直して進もう…」
虚ろに笑んで歩き出したカディスの背中を呆然と見つめながら、邪竜人間族の盗賊がこれまでどれほどの無力感に耐えていたのかを今さらながら身をもって思い知ったラルファグであった。
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