(7)
『闇』の竜の皇子の問いに盲目の魔道士が答えるよりも早く、赤い目のレフィデッドが固い床を蹴ってアシェス・リチカートに向かって来た。
アシェスは戦斧を引き抜きつつ身体をかわしやり過ごそうとするが、赤目の魔道士の動きは予想以上に俊敏で、目の前に迫られたと思った次の瞬間には彼の両手に喉を掴まれそのまま吊るし上げられていた。
細い指がぎりぎりと容赦なく皮膚に食い込んで来る。
アシェスは利き手に斧を握ったままもう片方の手でレフィデッドの腕を掴んだ。
法衣に包まれた細い腕からは想像も出来ないほどの強い力で締め上げられ、止まりかける呼吸が正常な判断力を奪ってしまいそうになる。
長身のレフィデッドの頭の上まで持ち上げられてアシェスの両足は床から完全に離れてしまっていた。
不安定な体勢から魔道士の腹へ膝蹴りを叩き込む。
吊るされているなりに渾身の力を込めた蹴りがマトモに入ったはずなのだが、レフィデッドはまったく怯んだ気配がなく、アシェスを締めつける力はどんどん強くなってゆく。
このままでは喉の骨を砕かれかねない。
「テジャス・ド・ルーダ!」
鋭い声が飛んだ。
善竜人間族の双子のどちらかのものだろうとアシェスは考える。
直後、レフィデッドの法衣が燃え上がった。
魔法の炎はアシェスにはその熱さえ感じさせず、呪文の対象とされた赤目の魔道士の身体だけを焼く。
頭部以外の全身を火に包まれ、これにはレフィデッドもたまらずアシェスを放り出す、かと思えたのだが。
全身を火炎に巻かれたまま、レフィデッドは形の良い唇を歪ませアシェスを見て微笑った。
苦しい息の下であっても見間違えようもない、確かな微笑。
火炎魔法が効いていないどころか、コイツは…。
赤い目が一際残忍な輝きを帯びる。
アシェスは残る全ての力を振り絞って戦斧を握る手にかき集め、やはり無理な姿勢からではあったが全力の斬撃を細身の魔道士の腹部目がけて打ち込んだ。
レフィデッドの身体をほとんど真っ二つに切断するほどの勢いで振るわれた戦斧の刃は、しかし、まるで分厚い金属の鎧に阻まれたかのように魔道士の身体にわずかにめり込んだところで止まり…。
「?!」
得物の柄を通して伝わってきた意外過ぎる手応えに息を呑み目を見張ったアシェスに向けて。
「テジャス・ド・グライド!」
レフィデッドの呪文が放たれる。
人間族の優秀な魔道士、『炎使い』であった彼の火炎魔法は、彼の身を焼こうとしていたジル・ユースの魔法の炎をも巻き込んで爆発的に膨れ上がり、燃え盛る激流となってそれを避ける術を持たぬアシェスに襲いかかった。
☆
炎の奔流に押し流されるようにしてレフィデッドの手を離れたアシェスが床に落ちる。
魔法の火炎は役目を果たすと一瞬のうちに消え去り、後には無残に焼け焦げた『闇』の竜の皇子の身体だけが残された。
「皇子ッ!!」
カディス・カーディナルが絶叫して駆け寄る。
アシェスのそばに片膝をついて悲惨な状態になった彼を抱え起こした。
その背中にレフィデッドがゆっくりと歩み寄って行く。
ジェン・ユースがカディスの向かい側に回ってアシェスの前に屈み込み、回復魔法の詠唱にとりかかった。
善竜人間族が使う『光』の回復魔法は邪竜人間族に対しては効果が薄い。
治癒の呪文の常ならば省略してしまうような部分まで抜かさずにきっちりと唱えないと傷を癒すことが出来ない。
ジェンは可能な限りの早口で詠唱を続けているが、どうしたってある程度時間がかかってしまう。
その時間を稼ぐために、ラルファグ・レキサスとジル・ユースがレフィデッドに向かって行く。
「あたしの炎をあんな風に使うなんてッ!」
カディス達を背中に庇える位置に飛び出すジル。
「許せないッ!!」
怒りも露わに大声をあげる、と同時に風の魔法を放つ。
不可視の刃が無数に生じ、大気を唸らせてあらゆる方向からレフィデッドに殺到したが、赤目の魔道士は眉一つ動かさず自らのバリアでジルの魔法をあっさりと退けた。
「嘘ォ!」
ジルの真空魔法はレフィデッドの髪一筋も傷つけることが出来ずに無効化された。
両者の魔道士としての力の差は歴然だった。
目の前の光景を咄嗟には信じられずに棒立ちになったジルの横をラルファグが駆け抜ける。
「食らえッ!」
狼人間族の剣士が赤い鞘から解き放った愛用の両手剣を振りかぶり、気迫のこもったかけ声と共に一気に振り抜く。
赤目の魔道士は無造作に素手でその刃を受け止めるような素振りを見せたが、何に気づいたのかはッと顔色を変えると慌てて身を引いた。
豪快に空を切った剣に振り回されることなく一瞬で体勢を立て直し、ラルファグがレフィデッドの前に立つ。
隙なく構えた刃先をぴたりと相手に据えたまま。
そのとき、ジェンの回復呪文が完成してアシェスが意識を取り戻した。
全快には程遠い状態ではあったが、カディスとジェンの制止を振り切って立ち上がると、アシェスはレフィデッドに向き直った。
『闇』の竜の皇子の闘志はいささかも萎えてはいない。
「オレに任せておけよ、アシェス皇子」
ラルファグが声をかけてくる。
アシェスはそちらに視線を向けた。
狼人間族の青年の声に含まれた思いがけない真剣さに戸惑ったように。
アシェスの反応には構わず、ラルファグは剣を構えたままレフィデッドへと一歩距離を詰める。
「赤い目に竜の身体。バケモノッてのはお前のコトか?」
低い声でそう言って、狼の瞳がレフィデッドを睨みつける。
「…、……その剣は」
それまで壁際に無言で控えていたウィプリズ・ユオが不意に口を開いた。
「竜殺し───か?」
「なり損ないの竜のバケモノなんて、信じちゃいなかったんだけどな」
ラルファグの尾がゆっくりと、揺れた。
「ホントにいるんなら…、───この剣の出番だッ!!」
叫ぶと同時に肉薄している。
ラルファグの剣を見たレフィデッドの表情がはっきりと狼狽したものになった。
怯えたように逃れかけ、けれどもその動きを完全に先読みされて、赤目の魔道士はラルファグの両手剣にあっさりと斬り伏せられた。
一撃で床に崩れたレフィデッドの身体から油断なく目を離さぬまま、ラルファグは動かなくなった敵から慎重に距離を空け───ふと、拍子抜けしたように表情を緩ませる。
「『失敗作』、か?」
ラルファグの言葉に、ウィプリズが舌打ちして長い杖をかざした。
平らな床に血溜まりを広げつつあったレフィデッドの身体が空気ににじむように消え去る。
ラルファグ達が床から目を上げたときには盲目の魔道士も消えていた。
後に残されたのは、二十数名の兵士達の死体と、レフィデッドが残した血痕、そして呆然と立ち尽くす五人の姿。
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