第19章−1
《第十九章》
(1)
雪原に大きく口を開ける、世界の最北端に位置する『氷の洞窟』。
美麗な彫刻を施された甲冑を身に着けた騎士とこの世のものとは思えないくらいの美貌を誇る美女、広く高い入り口を固めるのは二体の氷像。
とても気高い獣の牙のようにも見える、透き通った氷柱が頭上には長く垂れ下がっている。
迂闊に足を踏み出そうものなら水の四大がこしらえたと思われるそれらが一斉に襲いかかって来そうに思えて、ノルラッティ・ロードリングは数秒その場に立ちすくんだ。
リンド・エティフリックがきつく手を握りしめてくる。
自分がしっかりしなくてはいけないのだと胸の中できちんと言葉にして己に言い聞かせてから、ノルラッティは隣に立つ邪竜人間族の少女、リンド・エティフリックを見下ろした。
「リンドさん」
短く呼びかけると、赤い瞳がすぐに見返す。
幼い顔に浮かぶ予想以上に強い意志に気づいて、ノルラッティは口にしかけた台詞をすんでのところで飲み込んだ。
代わりに声にしたのはかけるつもりだったものとは正反対の意味を持つ言葉。
「行きましょう」
「うん!」
リンドはこくりとうなずいて、ノルラッティから視線を外しまっすぐ洞窟に向き直った。
ここで待っていますか、なんて、とても言える雰囲気ではない。
まだ子供のリンドは自分よりもこの状況に怯えているに違いないと勝手に決めつけて、失礼な提案をしてしまうところだった。
この子は強い。
私も見習わなくては。
リンドの手を引いてノルラッティは慎重に歩き出す。
邪竜人間族を見習おうなんて、自分は随分とおかしなことを考えている。
世界のはじまりから善竜人間族は邪竜人間族と敵対してきた。
『光』と『闇』、竜は決して相容れない。
ノルラッティも邪竜人間族には当然良い感情を抱いていない。
彼らの何が気に食わないというのではなく、彼らが彼らであること自体がその原因だ。
彼らも同じ理由で自分達を嫌っている。
それははじまりのときから続いてきた当たり前のこと。
それなのに、こうして今善竜人間族の自分は邪竜人間族の女の子としっかり手をつなぎあって、不安げに互いに身を寄せ合うようにして…本当におかしなことになっている。
ノルラッティとリンドは洞窟に入ってすぐに広がる円形の空間の中央付近で立ち止まり、四囲を見回した。
入って来た道の他にはどこにも抜けられない。
薄い氷に覆われた滑らかな岩の壁がぐるりと続いているだけ。
ホールは広いが視界を遮るようなものは何もなく、そこが完結した部屋であることはすぐにわかる。
二人は困惑して顔を見合わせた。
ここは氷の洞窟ではないのだろうか?
しかしフォーバルに教えられた方角にそれらしき場所はここしかなかった。
先に氷の洞窟に向かったトーザ・ノヴァとラーカ・エティフリックに合流するためにやって来たのに、男性二人の姿も気配もここにはない。
トーザとラーカは入れ違いにオフォック村に戻ってしまったのか、それとも…。
「おにいちゃん…」
我慢しきれなくなったように不安をはっきりと感じさせる声をあげて、リンドがラーカを呼ぶ。
もちろん答える者はいない。
腰まで届く長さの赤い髪を少し揺らして、もう一度何もないとわかっているホールを見回そうとする。
ノルラッティがリンドにつられて目線を動かしたとき、不意に壁面の一画に水色の光が走った。
二人が驚いて声もなく注目する前、細い光は壁を四角く切り取って、やがてその部分にぽっかりと穴が空く。
「…おや?」
突如出現した通路からひょっこり顔を覗かせたのは、赤毛にリボンのトーザ・ノヴァだ。
防寒具で身を固めていつものキモノ姿ではないけれど、柔和な顔つきにまるでそぐわない頬の大きな傷を見間違えるはずもない。
「トーザさん!」
「二人とも、何故ここまで…」
「おにいちゃん!」
リンドがいきなり駆け出した。
ノルラッティの手をつかんだままで。
突然のことにわけもわからず引っ張られるまま、ノルラッティも走る。
「リンド!」
トーザに続いて姿を見せた兄の胸に、リンドは迷うことなく飛びついていった。
リンドが寸前で手を離してくれたのでノルラッティはトーザの前で足を止めることが出来た。
「無事だったんですね」
「村の方で何事か?」
「ええ、…ギンレイさん達のご両親は?」
村で起きたことは一応決着している。
まず気がかりなのは連れ去られたウェスティングハウス夫妻の安否だ。
「もちろん、ご無事でござる」
穏やかに微笑んでトーザが示す先、控えていた一組の男女がノルラッティ達に無言で頭を下げた。
ギンレイやレイドフォードとよく似たところのある顔立ち。
ウェスティングハウス家の当主、ダンバーとその妻だろう。
軽く礼を返して、ノルラッティはほっと安堵の息をついた。
怪我をしている様子も衰弱している風もない。
色々あったがこうして四人がまた会えて良かった、と思う。
両親の無事を知れば親切にしてくれた姉弟も大喜びだろう。
『光』が自分達を守り導いてくれたおかげだ。
深く感謝して、声には出さずに唇だけを動かして祈りの言葉を紡ぐ。
「あ。ねえ、じゃあ、宝石は?」
兄のたくましい片腕にぶら下がるようにして抱きついて、すっかりにこにこ笑顔のリンドがふと思いついたように口を開いた。
「当然」
ラーカが大きくうなずいて、トーザに顔を向ける。
「見せてやれよ、ウンディーネの水晶」
気さくに言って何故かにやりと目につく笑みを浮かべる。
言われたトーザは途端に何とも決まりが悪そうな表情になって、
「い、いや、やはり四大の宝石の一つでござるからして、むやみやたらと人に見せるようなものではござらんと」
もごもごとひどく聞き取りにくい声で妙に弁解じみた台詞を述べ始めた。
トーザのそんな態度を不審に思う、暇もなく。
先程壁に走ったものとよく似た水色の光が唐突にその場に閃いて。
『あら、このわたくしをヒトに見せるようなものではないとおっしゃいますの? それはちょっとばかり酷な言い草じゃありませんこと?』
初めて聞く女性の声。
そちらを見直すと、いつの間にどこからわいて出たのやら…トーザの首筋に細くしなやかな両腕を絡めて艶然と微笑する、美女の姿。
「わ!」
思わず大声をあげて兄の後ろに隠れてしまうリンド。
トーザはほとほと困り果てたといった表情で美女を横抱きに抱えている。
抱き上げたくてそうしているのではなく、彼女がここに出て来てしまったのだからそうするより仕方ないと露骨に物語る情け無いカオ。
弱り切った剣士にひしと抱きついていとおしそうに頬をすり寄せたりなどしておいてから、女性はトーザの腕の中でノルラッティに向き直った。
『アナタも宝石の勇者ですわね』
氷の色をした瞳。
見つめる者を芯から凍てつかせてしまいそうなくらいに冷えていて、どのような感情も見透かしてしまいそうなほどに澄んでいる。
人のものとは明らかに異なるその美しさ。
洞窟の入り口で見かけた氷の彫像よりも遥かに美しい。
瞳と同じ氷色の髪は流水のような曲線を描いて彼女の細い背中を豊かに滑り落ちている。
薄絹一枚まとっただけの女性の肌は白くてきめが細かくて、ほとんどつくりものに見えるのに奇妙に不自然さはない。
絶世の美女とはまさにこのような容姿の女性のことを言うのだろう。
呆然と観察してしまっている自分に気づいてノルラッティは慌てる。
この女性は水の四大−ウンディーネが人のかたちをとったものに違いない。
声をかけられているのだから応じなければ。
何はともあれまずは名乗ろうと口を動かしかけたが、胸に下げた小袋の中身が彼女よりも先に口をきいた。
『ウンディーネ、そのような真似はおやめなさい。宝石の勇者が困っているでしょう』
大地の四大、ノームの声がその場にいる全員の頭の中に直接響く。
先刻のウンディーネの声にしても耳から聞こえるのではなく頭にじかに届いたのだが、声に合わせてウンディーネが唇を動かしていたので鼓膜を通して伝わって来たように錯覚していた。
『あら。いらっしゃいましたの、プリティヴィ・ノーム』
『私達の力は無為に用いるべきではありません。戯れに人の姿をとるなどと…およそ四大に相応しくない行為だとは思わないのですか』
『相変わらずおカタイ性格ですこと。それでこその地の四大ですけれど』
『ウンディーネ』
ノームが不穏に声を低めるが氷色の美女は涼しく笑って取り合わない。
『とんでもない、力の無駄遣いをしているのではありませんわ。わたくしは美しいものが好き。わたくし自身がこのように美しくあることでより強い力を得られるのです。その美しさを宝石の勇者に賞賛していただけたならもっと素晴らしい力を手に入れることも出来るのですけれど…』
言いつつ、恨めしげなまなざしをトーザに向ける。
トーザは腕に抱えたウンディーネから執拗なまでに目を逸らして、この状況は何かの間違いなのだと必死に信じ込もうとしている様子。
見るからに女性に対して免疫のなさそうなトーザにとってはほとんど裸身に近いウンディーネの格好は刺激が強すぎるらしい。
同性であるノルラッティも目のやり場に困ってしまうくらいだから無理もないが、とても彼女の美しさを称えるどころではなさそうだ。
「おねえさん、四大なの?」
ラーカの陰から恐る恐るリンドが問うと、ウンディーネは上機嫌の笑顔をそちらに振り向けた。
『そうですわ。わたくしは水の四大。ウンディーネですわ』
「えっと…トーザさん、気に入ったの?」
『とっても気に入りましたわッ!』
一層の笑顔でがっしとトーザに抱きつくウンディーネ。
抱きつかれたトーザは無下に振りほどくことも出来ずにただうろたえ、ラーカとリンドはうわあと顔を見合わせる。
おろおろしてるわりにはトーザさんちっとも赤くなってないけどといやに冷静に状況を分析しているノルラッティに、小声でノームが話しかけて来た。
四大や宝石の精霊達は音としての声を使わないようなので、小さな声で言ったことはノルラッティにだけ聞こえているのだろう。
『四大が皆あのような性格だとはどうか思わないで下さいね…』
ノームのいやに人間臭い口調に思わずぽかんとなってしまう。
その反応をどう解釈したのか、大地の四大は急いで言葉を付け足した。
『炎の四大、サラマンダーは立派な方です。いつか会う機会があればわかるでしょう』
「は…はい」
『シルフは…』
「………」
『………』
風の四大の名を出したきりノームが沈黙してしまったのが何故なのか気にはなったがノルラッティは追及しないことにしておいた。
それにしても。
水の四大を横抱きにしたままウェスティングハウス夫妻と何か話し合っているトーザを見て、その傍らで朗らかに笑い合っている邪竜人間族の兄妹を見る。
何だかここ最近、見聞する何もかもがこれまでの常識から大幅に外れてしまっている。
非常識が悪いことだとまでは思わないが、やっぱりどうにもおかしな感じだ。
「それでは、お二人を送って一度オフォックに戻るでござる。…ウンディーネ殿、歩きづらいゆえ宝石に戻って下さると拙者ありがたいんでござるが」
『まぁ。つれないんですのね、トーザちゃん…』
『ウンディーネ。大概になさい』
ノームの声がぴしゃりと響いて、さすがにふざけ過ぎたとようやく気づいたらしいウンディーネは大人しく水晶の中に戻った。
トーザはノルラッティとリンドに、氷色の美女が身にまとっていたのと同じ材質で出来ているように見える薄絹に包まれた水晶をたもとから取り出して見せる。
それは先程までの人の姿に勝るとも劣らないくらいに美しい宝石だった。
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