第18章−8
(8)
もう暗くなるから俺の家に泊まって行けと勧めるディルシア・フーシェに丁重に礼を言って丁寧に別れを告げて、ガールディー・マクガイルは一人深い森の中へと足を踏み入れた。
エルフが森にかけた魔法は移動魔法や転送魔法を無力化する。
自分の足で出て行かなければならない、入って来たときそうしたように。
木立に施された幻惑の魔法を破りエルフ達が通常行き来する森の中の一本道を通れるようになったとは言え、隠れ里から外の世界へと戻るまでには結構な距離を歩かなければならなかった。
エルフ達はこの通路を用いて広い森のどこにでも一瞬で移動出来るらしいが、自力で森を抜けたガールディーにも彼らがどのようにしてこの深い森をそんな風に動き回っているのか、その方法まではわからなかった。
やり方がわからないものを真似ることは彼には出来ない。
ガールディーは夜の森の中を一人歩く。
魔法に守られたこの場所には旅人の安全を脅かす危険な動物も魔物も存在しない。
道に迷うことも有り得ないので─何せ彼の目の前に続いているのはどこまでも真っすぐな一本道だ─ガールディーは足を動かしている間中自分の考えに没頭することが出来た。
先刻のディルシア・フーシェとの会話を一言一句違えずに頭の中によみがえらせる。
反復して、反復して、その言葉の意味を一つ一つ胸の奥に落とし込んで噛み締めて。
シルフィア・フーシェが選んだこと。
シルフィアがしたこと。
彼女が望み、願い、考え抜いて、自分のために───成し遂げたこと。
不意に思い出す。
街外れの丘のふもとで彼女に初めて会ったときのことを。
自分と同じ漆黒の髪、同じ色に澄んだ瞳。
真っ白な法衣をまとった細い肩に鮮やかな緋色のショールをかけて、自分の前に立った彼女。
初めて会ったときのこと。
シルフィアが『光の具現者』として生命を落としてから今まで、何度も何度も考えた。
彼女がどういうきっかけで自分を好きになってくれたのか。
気づいていないだけで実はあれ以前にも顔を合わせ口をきいたことがあったのではないか、きっとそのはずだと、懸命に記憶の棚を引っかき回した。
どんなに努力してみてもそれらしきエピソードは全く思い出せず、ガールディーはついには特殊な魔法を用いて自らの記憶を全て取り出し点検することまでした。
自分がこの世に生まれてからあの丘でシルフィアに声をかけられるまでに自分が体験したありとあらゆる出来事を、両手でも抱え上げられないくらいに分厚い書物のかたちで取り出して、じっくりと時間をかけて最初から丹念にたどってみた。
二十年分の人生を読み解くには同じ二十年の歳月を必要としたが、魔道の力で人間族の寿命を遥かに超える年数を生きられるようになったガールディーにとってはそれは別段問題になるようなことでもない。
しかし、自身の人生をまるごと追体験してみてもシルフィアがどこでガールディー・マクガイルを知ったのかはわからなかった。
半年以上もあなたを見ていた。
シルフィアはそう言った。
それまで自分の名前を知らなかったとも。
あの丘によく来る、と言った。
丘に一本そびえる大きな樹が好きだから。
だとすれば二人の出会いは偶然?
半年前のある日あの丘へ好きな樹を見に来たシルフィアは、そこでたまたま一人で魔法の練習をしていたガールディーを見つけて、半年もの間何も言わず何もせずに見つめ続け想い続けて…たった半年前に知ったばかりの、口をきいたこともなければ名前も素性も知らない男のために、その男を守るために自分の生命を投げ出すことを決意した。
───そんなバカなハナシがあるものか。
あまりにも展開が強引過ぎる。
思考が飛躍し過ぎている。
たとえ恋や愛といった感情が人間を狂わせるものだとしても、それでは無茶苦茶だ。
黙々と歩を進めながら、ガールディーは考え続ける。
シルフィアは半年以上も自分を見ていたと言ったが、あの丘で、とは言わなかった。
もう何度も検討した些細な言い回しだ。
あの丘でなければどうなのか、あの丘でなければ何処なのか。
ガールディーにはわからなかった。
その言い回しに意味があるのかどうかさえも。
自分の記憶の全てを見直した結果としてその言葉が意味するものがわからない以上、彼がそれを理解することは不可能なのかもしれない。
そうしてもう二百年以上も前の出来事を必死になって考え続けている自分に気づいたとき、ガールディーはシルフィア・フーシェが己の心の中に確かに住みついているのだと自覚する。
自覚して、自嘲気味な笑みを口許に浮かべたりする。
聖域の洞窟の前で慌しいことこのうえない別れを経験したあの日から、シルフィア・フーシェの存在はガールディー・マクガイルの人生の大半を占領するようになった。
大切なものの本当の価値は失くして初めてわかるもの。
告白された直後はそうでもなかったのに、それからしばらくの間もぼんやりとした想いでしかなかったのに、彼女が永遠に失われてから初めて、ガールディーはシルフィアを愛しいと思った。
一緒に生きてみたかった。
もっとたくさん話をして、もっと多くの時間を共に過ごして。
もしかすると自分とシルフィアとは実際には相性が良くなかったかもしれない。
寄ると触ると口論になって、意地を張ってばかり相手を悲しませてばかりで、結局は壮絶なケンカの末に別れてしまう…なんて可能性もある。
それでも。
たとえ最終的にそうなったとしても、そっちの方が良い、とガールディーは思う。
そっちの方がずっと良い。
そうであってほしかった。
たとえ共に過ごすことでシルフィアに失望し嫌いになってしまったり、逆に彼女から失望されて愛想を尽かされる羽目になったとしても。
その方がずっと。
暗い森の中、ガールディーは不意に足を止める。
誰かに背中から呼び止められでもしたかのような動作で、何気なく来た方向を振り返る。
しばらくそのままじッと立ち尽くす。
この森はどこまでも静かだ。
エルフの隠れ里の方角を無言で眺めていると、自分がとんでもない忘れ物をして来てしまったような感覚に囚われる。
大事なものを置いて来てしまったような…いや、渡さなければならなかったものをそのまま持って帰って来てしまったような───違和感。
全力でこの道を駆け戻らなければならない。
もう一度ディルシア・フーシェに会って。
そうしなければならない、本当はそれを果たすためにあそこまで行ったのだから。
なのに何故自分はそれにふれもせずに帰ろうとしているのか。
シルフィアの本当の気持ちを知った衝撃が大きくて?
それ以上のことには今日はもう耐えられそうにないからと?
自分さえもごまかせない言い訳はもうやめよう。
俺はお前と一緒に生きてみたかったんだ、シルフィア。
祈るようにガールディーはそう思う。
ただそれだけだったんだ。
俺は。
俺は……。
力なくうなだれて、固く瞳を閉じる。
世界の全てを自分から閉め出そうとするように、心の中にいるシルフィアと二人きりになれるように。
俺は、俺は…誰かから好きだなんて言われたの、生まれて初めてだったんだ。
だから。
だから……。
だから。
一緒に…もっと一緒にいたいって。
それはお前が。
必ずまた会えるって、言ったから。
俺はそれを信じて…お前にまた会いたくて、でもそれがいつになるかわからなくて、……俺はそんなに待てない。
その後は言葉にならない。
気持ちがまとまらない。
ディルシア・フーシェに伝えるはずだった。
自分がしたこと…してしまったこと。
ディルシアにはそれを知る権利があり、自分にはそれを告げる義務があった。
それなのに……。
長い間彼はそうして森の中に立ちすくんでいた。
身動き一つせずに、長い間。
そうして、ガールディーは静かに瞳を開く。
ゆっくりと顔を上げる。
森の出口へ向き直ると、後はもう振り向きもせずに、───確固とした足どりで歩き出した。
第18章 了
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