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(3)

 音も光も何もない。
 唐突に世界が切り替わった。

 まばたく程の時間もかけず、コート・ベルは見知らぬ建物の中に移動させられていた。

 急な展開に戸惑いながら、周囲を見回す。

 あまりに高すぎて見上げても見上げ切れない天井、靴底を通して冷たさが染み込んでくるような固く平らな床。
 広い、非常に広い空間だ。
 壁が遠い。
 広いだけで何もない。
 誰もいない。

 いや、誰もいないのはおかしいのではないか?
 少しだけ慌てて振り向くと、背中側に皆がいた。

 チャーリー・ファイン、ヴァシル・レドア、フレデリック、それにカーマッケン。
 コートに背を向けて何か一つのものに注目しているようだ。

 一番近い場所にいるヴァシルに声をかけるよりも先に、皆が見つめているものが一体何なのかを知っておこうと、コートは一歩踏み出してそちらを見やる。

 テーブルがあった。
 純白のクロスがかかった円卓だ。
 まわりには簡素なデザインの椅子が五つ、等間隔に置かれていて、そのうちの向かい合う二つに二人の人物が腰を下ろしている。

 当然のことながら、二人ともコートが初めて見る顔だった。
 どちらも男性だ。
 白い髪に細い身体、見るからに理知的で冷静沈着な雰囲気を漂わせる一人と、燃えるような赤い髪に堂々たる巨躯、いかにも荒っぽい性格の持ち主に見えるもう一人。

 コート達がここにいると気づいていないのだろうか?
 二人は円卓の上に置かれた五角形のボードを挟んでそれぞれの思索に耽っていた。
 ボードの上には白黒二色の小さな丸板が一見無秩序に散らばっている。

「陣取り?」

 静寂を破ってヴァシルが誰にともなく同意を求めるように、呟く。
 コートにもそれは陣取り−黒白の駒を置き合って相手よりもたくさんの領地を得ることを目的とした、子供が好む単純なルールのゲーム−に見えた。

 白が優勢、黒が一目見てそうとわかるぐらいに劣勢。
 白髪の男性は涼しい笑みを口許に浮かべ、対する赤髪の男は眉間に深い皺を刻んで腕を組んだままじッと考え込んでいる。

『…あの。御主人───』

 いつまでもこのままでいても仕方ないと決意したのかカーマッケンが遠慮がちに口を開きかけるが、白い髪の男はそちらを見もせずに小さく笑って片手を挙げて、その台詞を遮った。
 対戦相手が考えている最中なのだから静かにしていろと言いたいのか…空飛ぶ小魚は結局それ以上は何も言えずに黙り込んで、一人一人の表情をうかがうように恐る恐るこちらを振り向く。

 赤髪の男が不意に顔を上げた。
 カーマッケンの声に初めて自分達以外の人間がその場にいることに気づいたらしい。

「うん? …あぁ…───あー、お前ら!」

 礼儀も何もない、無遠慮な大声でコート達全員に呼びかけてきた。

「三手だ。ひっくり返してくれ、コレ。俺にはもうわからん」

 ボードを指して肩をすくめる。

「助けを求めるのですか? あなたの負けになりますよ」

 白髪の男がほんの少しだけ咎める口調でそう言った。
 言いつつも、彼は自分の言葉とは裏腹に面白そうな表情でコート達を見つめてくる。
 この状況を逆転させられる者が来客の中にいるのかどうかお手並み拝見、といった表情で。

 まだ互いの自己紹介どころか挨拶すら済ませていないというのに。
 ずいぶん無礼な態度をとるとコートはほんの少し不愉快に思ったが、白髪の彼がカーマッケンの主人…すなわち『海底神殿』の番人、『白』のシェルと思われるこの状況では面と向かって抗議するワケにもいかない。

「この一番は捨てる」

 客達の困惑には全く無頓着な様子で赤髪がきっぱりと言う。

「どうした? そんなトコじゃ盤も駒もよく見えねえだろ?」

 二度目の呼びかけに応じて動いたのはチャーリーだ。
 黒いマントをわずかになびかせてすたすたとテーブルに近寄ると、何も言わないままボードに視線を落とす。
 コートが立つ位置からはマントに包まれた背中しか見えないので彼女がどんな表情をしているのかはわからない。

 十秒としないうちにチャーリーは一枚の黒板を取り上げると、無言でぴしりと盤の上に叩きつけた。

 赤髪の男がかるく目を見張って彼女の手元を覗き込む。
 白髪の男がボードの上から白板を取りすぐに別の場所に置いた。
 その手が駒から離れるか離れないかのうちに、チャーリーが別の黒板を別の所へ置く。

 白髪の男がすっと目を細めて動きを止めた。
 三十秒近い間を空けて、白板を動かす。
 今度はチャーリーの手が止まった。

 どういう意図があっての発言だったのかは不明だが、さっき赤髪の男は「三手」で黒の劣勢を打破してみせろと言った。
 ただの思いつきなのか、それとも大体の見通しがあったのか。
 男が見た目通りの性格の持ち主であるとすれば、勝てる可能性がある勝負を自分から投げるような真似をするとは思えない。
 まだ手があるという根拠も無くただからかうつもりでああ言ってみただけのことかもしれないとコートは思うのだが、チャーリーは彼の台詞をそうはとらなかったらしい。

 先のない黒い手袋をはめた指が盤の上でぴたりと静止している。
 一分ばかりもそうしていただろうか。
 はっと何事かを思いつくなり素早く一枚の黒板をつまみ上げると、迷いのない動作でボードの上に投げつけるように置いた。

 二人の男が椅子から腰を浮かすようにしてその一手に注目し───。

「よっしゃ!!」

 赤髪の男が左手で拳をつくって破顔する。

「なるほど…」

 白髪が小さくため息をつき、椅子に深く座りなおす。

 どうやら、チャーリーは黒を白に勝たせることに成功したようだった。
 一体どのような手を用いたのかは見えないのでわからない。

 コートは呆気にとられたように黒いマントの背中を眺めていた。
 よりによってチャーリーが赤髪の男の言葉に乗ってゲームに参加したのが不思議でならなかった。
 チャーリー・ファインと出会ってからまだいくらも時間が経ってはいないが、コートには彼女がそういうことをするような人間には見えなかったから。

 どちらかと言うと、こんなときには───。
 思った途端。

 チャーリーが右手でテーブルの上を勢いよく払った。

 ボードが弾き飛ばされ、大きな音を立てて床で跳ねる。
 盤の上にあった何十枚もの小さな丸板も当然その後を追って転がり収拾がつかないくらいの広範に散乱した。

 カーマッケンが空中でびくんと跳ね上がり、たった今そういう行為こそが相応しいと思いかけていたコートも反射的に身をすくめる。

 ヴァシルとフレデリックは平然としていた。
 白髪と赤髪、二人の男も。

 赤髪の男はチャーリーがとった行動にも顔色一つ変えず眉一つ動かさなかったばかりか、むしろ楽しそうな表情を隠そうともせずに浮かべて、やがて笑顔だけでは足りなくなったらしく大きな声をあげて笑い出した。

 チャーリーがそちらを睨みつける。
 横顔からでもはっきりとわかるぐらいに剣呑な瞳。
 カーマッケンがうろたえつつも間に入ろうと、尾びれをふわりと広げる。

「失礼。謝罪しましょう」

 その場を収めるように白髪の男が口を開いた。
 すらりと短く言って静かに席を立つ。
 赤髪の男も笑いながら立ち上がった。

 二人が椅子から身体を離すと同時に、全てが消えた。
 テーブル、椅子、五角形の盤、白黒二色の丸板達。
 それらが一斉に、空気に溶け込むようにして跡形もなく消え去る。

「ようこそ、我が『海底神殿』へ」

 白髪の男が改まった口調で切り出した。

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