(8)
「ヴァシル・レドア!」
大声で名前を呼ばれた。
声の主へ顔を振り向けるよりも早く、ヴァシルの目の前へ小さな何かが飛んで来た。
反射的に、片手で掴み取るように受け止める。
意図せずとも拳の中にすっぽりと隠してしまえるぐらい小さくて、重さを感じさせないほどに軽いもの。
投げ渡されたそれを握り締めたまま、視線を上げる。
アークがどこか面白がっているような表情で自分を見つめていた。
「やるよ。持ってけ」
何気ない口調で言って、唇の端を吊り上げるようにして笑う。
「やるって…」
何を?
指を開いて手のひらの上にある物体を見る。
筒…細くて短い、筒だった。
長さは五センチ程。
上下一センチが銀色の素材で出来ていて、残りの部分がガラスによく似た−けれど微妙に手触りが異なる−透明な物質で構成された、筒。
筒の上下、銀色の部分には細い鎖を取り付けられるような小さな突起がある。
透明な部分からは、筒の中に三つのものが入っているのが見える。
その九割を満たす水、水中に漂う虹色の小さな真珠、そして真円のかたちをした真珠にまるで生き物のような動きでまとわりついている、不思議な光。
「…何だ、コレ?」
心底見当がつかなくて素直に問い返す。
皆の意見も聞けるようにとちっぽけなその筒を指先でつまんで掲げて見せたら、フレデリックから一瞬目線を外してこちらを向いた『白』の表情が劇的に変化した。
「それはッ…?! なッ───アークッ!!」
淡々とした語調をこれまで崩すことのなかったシェルが、露骨に動揺して『赤』を振り返る。
険しく厳しく、敵意すら感じさせるような瞳でアークを睨みつける。
「いいじゃねえか。どうせ渡すんだし」
『白』の剣呑な視線に気づいても、『赤』は涼しいカオをしている。
「しまっとけ、ヴァシル。ちっさいモンだから失くすなよ。それお前の宝石ってワケじゃねえからな」
アークにはっきりとそう言われてようやく、今自分の手の中にあるこれが『海底神殿』の宝石なのだと気づいた。
自分の宝石でないのが少し残念だったが、確かに失くしては大変だと『赤』の台詞に即座にうなずいて、ヴァシルは真珠の入った筒を腰のポケットにしまい込んだ。
我ながら雑な扱いだとは思うが、彼の衣服にはそこぐらいしか物を収納出来る場所がない。
落として紛失してしまうよりはずっとマシだろうと一人納得する。
「あなたと言い『青』と言い…一体私達の役目を何と心得ているのですかッ?!」
初めて聞くシェルの怒鳴り声だった。
対するアークはさっきと同じく塵ほどの反応も見せず、それどころかあからさまにあさっての方向を見上げてわかりやすく聞こえなかったフリなどしている。
「………。…わかりました。それでは、私だけでも当初の予定通りにさせていただきますから」
そのまま立て続けに怒声を浴びせかけるかと思いきや、シェルは一転して落ち着いた態度になって、半歩後ろへ下がる。
静かなその動作にどのような意味があるのかと思考を巡らせかけた刹那。
ヴァシル達のやりとりを無言で見守っていたチャーリーの身体を、いきなり床から立ち上がった透明な水の円柱が取り巻いた。
「!!」
全員が注目する先、薄い滝の向こうで棒立ちになったチャーリー・ファインの姿が───霞んだ。
そのまま消え去ってしまいそうなくらいに、頼りなく薄れる。
驚愕した動作で自分の身体を見下ろしたチャーリーが何事か、叫ぶ。
声にならない。
あるいは水の膜に遮られこちらに声が届かないのか。
彼女の身体の輪郭線が弱々しく揺れて、空気に、溶ける───。
なす術もなく立ちすくむ目の前で、光が弾けた。
真白い閃光が周囲を満たし、思わず腕を上げ顔をかばって目を瞑った。
光が止んだ気配に慌てて目を開け、状況を確認する。
先刻と同じ場所に悄然と突っ立っているチャーリーを背中に守るようにして、フレデリックがシェルと対峙していた。
水の柱は消えている。
フレデリックは自然体でシェルの前に立っているだけだったが、彼の黒い瞳に浮かぶ静か過ぎる怒りの色が『白』のそれ以上の行動を完璧に阻んでいた。
シェルが下唇をわずかに噛む。
気圧されたかのように後退る。
「『名無し』…!」
名前とも思えないその名を、苦い声で呼ぶ。
呼びかけを無視して、フレデリックはシェルに背を向け、チャーリーの顔をそっと覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
チャーリーはうなだれたまま、反応しない。
返事が得られなかったと言うのに、フレデリックは満足げに微笑する。
片手を持ち上げて、チャーリーの頭を軽く撫でる。
普段の彼女からは想像もつかないくらい緩慢な動きで、それでもチャーリーは、フレデリックの手を払いのけた。
「間違っていると思うんです。私は」
払いのけられた手をゆっくりと引きながら、フレデリックは穏やかに語りかける。
「安心して下さい。あなたは私が守りますから。…全てのものに背いてもあなたを守る存在が一つくらいはあってもいいでしょう?」
無防備なはずのその背中を、シェルはただ見つめたまま、何も出来ないでいる。
「カーマッケン!」
場の雰囲気をまったく考慮せずにアークが大声をあげた。
予想外のタイミングで名前を呼ばれて青い小魚がまたびくんと跳ね上がる。
カーマッケンもかなり精神的にくたびれてきているらしく、その小さな身体を包む薄青い光がややくすみがちなものになってしまっている。
『なッ…な、何でございましょう?』
「コイツら連れて地上へ戻れ」
無造作に命じられ、カーマッケンは一瞬その意味がわからずきょとんとなった。
『つッ…連れて戻れ、と、おっしゃられましても…ッ! かような…わっ、我が御主人の命が下されません以上はッ、いかに「赤」の御方のお言葉とは言え…ッ!!』
狼狽する小魚に大人げなく追い討ちをかけるように、アークが意地の悪い笑顔を見せて続く台詞をぶつけた。
「オレの指示を聞けねえんだったら、オレも『名無し』に加勢するぜ」
にやりと笑ったまま、挑戦的にシェルを見やる。
「そうなったらいくら『白』でもヤバイだろうなァ」
愉快そうに言ってのけるアークを、カーマッケンは言葉もなく見返していた。
魚の表情などヴァシルにはよくわからないがおそらく呆然としているに違いない。
ヴァシルも呆気にとられていた。
ただ成り行きを見守ることしか出来ず、じっと動きを止めている。
コート・ベルもヴァシルと同じ状態であるようだ。
次に自分が何をするべきなのか、何か言うべきなのか、思いつけない。
思いつける気もしない。
「本気で言っているのですか、アーク!」
シェルが叫ぶ。
アークは迷いなくうなずいた。
「こんなコト嘘や冗談で言えるかよ」
「あなたというヒトは…!」
「あのお嬢ちゃんに何かしてみろ。『名無し』はオレ達を許さないだろうぜ」
『白』の反論を押し返しそのまま封じ込めるように、『赤』は言う。
「オレ達の目的は『世界』を存在させ続けること、だろ? だったら今ここでアイツを必要以上に刺激するような真似はやめとくこった。シェル、お前こそ忘れたのかよ? 『名無し』はオレ達とは違うんだぜ」
ヴァシル達には理解出来ない内容の台詞だったが、それを聞いて『白』は疲れ果てたように肩を落とし、大げさなくらいに深く深くタメ息をついた。
「…わかりました。わかりましたよ」
投げやりに二度繰り返す。
「お聞きの通りです、『名無し』。予定を変更しますよ。連れて行きなさい、あなたの『姫』を」
何かをあきらめたような口調でそう告げてから、シェルは表情を和らげた。
「宝石も勇者の手に渡ってしまいましたし…もう私は何も言いますまい。…そうですね、先程はもういいと言われてしまいましたが、何かご質問があるようでしたらお答えしますよ」
そう言ったシェルは、何故かヴァシルの顔を見た。
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