第17章−9
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 サイト・クレイバーは深緑色の髪を持つエルフの青年の後を追って、森の中に分け入った。

 一度その中で迷ってしまえば自力で脱出することはほぼ不可能な魔法の森、案内役の青年はそれなのにサイトの方を振り返り確かめる素振りもない。
 必要以上に冷淡に見えるその態度にわずかな不審を抱いたのも束の間、十数歩も進まぬうちに森は途切れ、サイトはいつの間にかひらけた空間に立っていた。
 つい先刻まで四囲を木立に取り巻かれ、いつ尽きるともわからぬ森の中を歩いていたはずなのに。
 驚いて見回す。
 サイトのすぐ背後に変わらず森はあったが…。

 そこで初めて、立ち止まった青年がサイトに向き直った。

「申し遅れました、サイト皇子。私の名はエイル。エイル・レイシェアと申します」

 名乗っておきながらもサイトの返事を待たず、エイルは再び歩き始める。
 彼の行く手には村がある。

 低い木の柵で大雑把に区切られた敷地に建ち並ぶ、小さいけれども住み心地の良さそうな家々。
 窓辺や玄関先には家人が心をこめて世話をしているのだろう花と緑があふれ、村の中心を長く横切っている小川の流れは澄み通って陽光にきらめいている。
 白い砂を敷き詰めた細い道。
 道沿いにも色とりどりの小さな花が咲き乱れ、ところどころを小さな蝶がひらひらと飛び回っていた。

 エイルに導かれるまま、サイトは小道を辿って村の奥へと進んだ。

 空気がしんとしている。
 ひどく張り詰めていて、けれど伝わるのは居心地の悪い緊張感ではなく、引き締まった清涼感。

 不思議な場所だ。

 人影がないからそう感じてしまうのかと最初は思ったが、視線を巡らせるとエルフの姿はあちこちにちゃんとあった。
 軒先に並べた椅子に腰を下ろして談笑していたり、小川で野菜を洗っていたり、戸口から興味深そうにサイトの方を眺めていたり。

 身を隠しているわけでもなく声を潜めたりもしていないのに、実際に視界に入って来るまでサイトは彼らの存在に気づかなかった。
 エルフの姿があまりにも村の風景と調和し過ぎていて。
 楽しげな笑い声さえもが自然の物音に違和感なく溶け込んでしまって、辺りは蝶の羽音や川のせせらぎが耳に届きそうなくらいの静けさに満ちている。

 不思議な場所だ…。

 やがてエイルは一軒の家の前で足を止めた。
 村にある他の家よりも一回り程度大きいことを除けば別段何の特徴もない、質素なたたずまい。
 庭先の陽だまりで白い母猫が三、四匹の仔猫とかたまりになって熟睡しているのが目に入る。
 飼っているのだろうか。

 扉に歩み寄ったエイルがノックするべく右手を持ち上げた、瞬間。

 ドアが内側からばたんッ! と勢いよく開け放たれた。
 エイルはすんでのところで身をかわす。
 危うく顔面を強打するところだ。
 この村の静かな空気に似合わぬ物音にびくッと警戒しかけるサイト。
 彼の視線の先に飛び出して来たのは。

「いらっしゃいませ! ひかりのりゅうのおうじさま!!」

 元気一杯、明るい声。
 サイトの腰までも背丈が届かない、幼い女の子だった。

 ほとんど白く見える金色の髪をピンクのリボンでおだんごに結って、リボンと同じ色のワンピースには真っ白いフリルがふんだんにあしらわれている。
 やわらかそうな白いほっぺたは上気してほんのり桜色。
 空色の大きな瞳がサイトを見上げた。

 いきなりの熱烈な歓迎を受けてサイトは数秒間硬直した。
 礼を返すことも忘れている。
 まさかこどもが出て来るとは思わなかったのだ。
 固まっている彼を女の子はきょとんと見つめている。

「どうしたの、おうじさま?」

 止まってしまっているサイトから外した視線を、物問いたげにドアの脇に立つエイルに向けようとした女の子の身体を、彼女に続いて家の中から現れた人物が大きな手でひょいと抱き上げた。

「駄目だろう、サフィア。サイト皇子がビックリしてしまっているじゃないか」

 彼は少女を片腕に抱いて、エイルとサイトの前に立つ。

「サイト皇子をお連れしました」

 彼を見るなりエイルが即座に姿勢を正して報告した態度からすると、この人物こそが最も力のあるエルフの一人…高位エルフの、リーダー格。

「ああ、ご苦労さん」

 エルフは特定の指導者を持たない。
 だから彼個人には絶対的な権限などはないはずなのだが。
 そんな事実を忘れさせてしまうような堂々とした立ち居振る舞い、威圧感と存在感に満ちたその風貌。

「サイト・クレイバー、『光』の竜の皇子。遠いところをよく来てくれた、心から歓迎する」

 屈託のない笑みを見せてサイトに片手を差し伸べたのは、身長が二メートルを軽く超えていそうな…その長身に見合うだけの胸板の厚さや肩幅の広さを備えている、巨漢。

 サイトは慌てて握手に応じる。

「俺はディルシア。ディルシア・フーシェ。こっちは俺の娘だ。どうだ、めちゃくちゃ可愛いだろう? 名前はサフィアと言う。いい名前だろう。きちんとごあいさつしなさい、サフィア」

 青みがかった銀色の髪を無造作に背中に流した高位エルフは、娘とよく似た色の瞳を片方だけ優しげに細めて、自分の腕の中にいる小さなサフィアを見下ろした。
 父に促され、サイトに向き直り、サフィアはませた口調で名乗ってみせる。

「あたしは、サフィア。サフィア・フーシェです。はじめまして、ひかりのりゅうのおうじさま。あたし達の、エルフの里へ、ようこそいらっしゃいました」

「よーし、いいこだ。カンペキなごあいさつだ。頑張ったな、サフィア。とうさんは嬉しいぞ」

 ディルシアの大きな手がサフィアのおだんご頭をぐしゃぐしゃとかきまぜてしまう。
 少しだけ非難の声をあげつつもサフィアもとても嬉しそうだ。
 父娘が醸し出すほのぼのとした雰囲気に呆気にとられていたサイトだったが、ここでようやく自分を取り戻し、礼儀正しく自らの名前を身分とを改めて告げる。

「アンタがここまで来た理由はわかっている」

 ディルシアはそう言って片目でサイトを見下ろした。
 澄んだ空色をした左の瞳。
 もう片方の瞳の色はわからない。
 眉の上から始まって顎のすぐそばまで下りた傷痕が彼の右目を完全に閉ざしてしまっていたから。
 刃物でつけられた傷だろう。
 かなり凄惨な眺めだが本人は気にする風もなく、娘のサフィアも控えるエイルも意識してはいない様子。
 自分だけが注目しているのはいかがなものかとサイトもごくさりげなく注意を逸らしておくことにする。

「湖の洞窟にある、宝石の件で」
「ああ、知ってる。ま、中に入ってくれ。他の連中も揃ってる。俺達からも話がある」
「それが…非常に申し訳ありませんが、あまりここでゆっくりしているワケにはいきません。あの森の中で私が戻るのを待っている仲間がいますので」

「人間族のお嬢ちゃん二人に『光』の竜の魔道士一人、だろう。心配はいらない。面倒見の良い連中が食料だの寝具だの抱えて様子を見に行くだろうよ。エイル、お前の妹が一番乗りだな」

「ミリルが?」

 唐突に話題を振られて面食らった表情のエイル。

「融通のきかない兄貴が他種族の客人に無礼なことをしたと。アイツらしい考え方ではあるな」

「…私はこれで失礼します」

 さっと一礼して、エイルは引き止める間もなく足早にその場から立ち去った。
 きっとミリル…妹の後を追うのだろう。
 もめるようなことにならなければ良いがとサイトは思った。
 まさか彼が一旦自宅へ紅茶を淹れに行ったのだとは想像出来るはずもないサイトである。

「お仲間のことはアイツらに任せとけばいい」

 再度促され、サイトは短くうなずくとディルシアの家の中に足を踏み入れた。

 それにしても、顔に…いや、顔にでなくとも刀傷があるなんて。
 サイトが持っていたエルフの知識が正しいものだとすれば、あまりに特異な存在だと思わざるを得ない、ディルシアは。

 エルフは争いを好まない。
 同族同士で傷つけ合い殺し合うようなことは絶対にしないと聞く。
 他の種族とは…接する機会がほとんどないから争わないだけなのかもしれないが。

 それにしても他種族の者がエルフにここまでの傷を負わせるような事件があったなんて聞いたことがないし、そういう事件が過去にあったとも思えない。
 接触を持たないが故にエルフは他の種族から憎まれることもないのだ。

 それではこの傷は…一体、何故?
 やっぱり気になってしまう。

 ディルシアの後について歩きながらもつい考えに沈んでしまうサイトを、父の腕に抱かれたサフィアが不意に振り返った。

 目が合う。
 戸惑ったサイトにサフィアは初めて顔を合わせたときと同じようににっこり笑いかけた。
 ややぎこちなくなってしまいながらもサイトが彼なりの笑顔を返すと、サフィアは何故だか満足げにうなずいた。

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