第17章−1
《第十七章》
(1)
ヴァシル・レドアとコート・ベルがとりあえずの落ち着きを取り戻したのを見届けてから、アントウェルペン・ベルはソファとテーブルのあるその部屋を出た。
ヴァシルとコートにも温かなカフェオレを用意してやるために。
そして、自分の気持ちを少し整理するために。
夜も更けて、必要最低限まで光量が落とされた廊下を、歩き出す。
短い髪のメール・シードが残した手紙の内容にショックを受け飛び出して行ったコートは、自らの血で上着を真っ赤に染めて戻って来た。
チャーリー・ファインから、傷自体はフレデリック−ひょろりと細長い印象を与える長身の魔道士−の回復魔法で治したから心配はいらない、と聞かされ一旦は安堵しかけたものの。
コートがその傷を負うまでにあった出来事、短い髪のメール・シード…正確には『彼女の中にいたもの』がどういう存在であったか、長い髪のメール・シード…大事な孫の花嫁となるはずだった少女がどんな運命を辿ったのかについて、チャーリーの淡々と冷ややかな口調で説明を受けるにつれ───アントウェルペンは平静ではいられなくなった。
混乱する頭を冷やそうと、チャーリーのために何か飲み物を持って来ると部屋を出た。
それがつい先程のこと。
少しは頭を冷やせたはずなのに、今またこうして廊下を一人歩いている。
メール・シードのことを考える。
つややかに美しい長い黒髪、紫がかった藍色を溶かし込んだような豊かな黒の瞳。
学者の自分が本棚の隙間で育てたせいか、男のクセに内気で引っ込み思案なコートの手を取って、王都を、研究所を連れ回していた明るい笑顔。
コートとメールはいつも二人寄り添い、穏やかな微笑みを交わし合っては、その幸福そうな様子で周囲の人間達をもあったかい気分にさせた。
コートがメールを生涯共に歩んでゆく相手とすることを報告に来た日のことを思い返す。
少々強張った声で、あの日のコートは吹き出したくなるぐらいいつにもまして生真面目なカオで。
すぐ隣に控えるメールは普段の彼女らしくもなくじッとうつむいて、耳まで赤くして。
アントウェルペンは薄暗い廊下でふと立ち止まり、高い天井を意味もなく見上げた。
どれほどの喜びであったことか。
明かりの届かぬ部分を塗り潰した闇を、睨みつける。
それが、どれほどの喜びであったことか。
『光』よ、知識を司る風の四大よ、運命を統べる水の四大よ。
おわかりにならないのですか。
それが、どれほどの喜びであったことか。
何故、それを唐突に奪ってしまわれるのか。
コート・ベルの父はコートが生まれる前に−妻の体内に新しい生命が宿ったことすら知らぬまま−この世を去り、コートの母、アントウェルペンのひとり娘は我が子をこの世に送り出すことと引き換えに、その腕にコートを抱くことすらかなわぬまま命を落とした。
その前年、長い間連れ添ってきた最愛の妻をも失っていたアントウェルペンは、まだ目も開いていない赤子の身体をしっかりと抱きしめて、やはり『光』やシルフやウンディーネに呼びかけたものだった。
大事なものが壊されてゆく。
わたしも行かなければならない、とコートは言った。
『光』に選ばれた戦士なのだから、と。
剣の腕もなければ魔法の才能もコートにはない。
アントウェルペンの後継者としてベル研究所の所長となるのが小さな頃からのコートの夢だったから、知識の収集には熱心でも身体の鍛錬は怠りがちだった。
そんなコートが、戦うと言うのだ。
一体、お前に何が出来る?
本当は止めたかった。
メールを想うコートの気持ちは我がことのようによくわかったが───このうえ、大事な孫まで失くすことになれば、自分は…。
しかし止められなかった。
チャーリーの、ヴァシルの、そしてコートの眼差しが、止めることを許さなかった。
それでも、コートさんは『光』に選ばれた戦士ですから。
毅然と言い放ったチャーリーの言葉。
運命がコートを選び、コートがそれを受け入れたのなら、口出しするべきではない。
アントウェルペンは再び歩き始める。
視線を前方に戻し、一歩一歩ゆっくりと、足下を確かめるようにゆっくりと。
───それでも。
かすかに表情を歪めて。
『光』よ、知識を司る風の四大よ、運命を統べる水の四大よ───。
悲しみを封じるための言葉を胸の中で繰り返す。
どうか、コートだけは。
いつしかその繰り言は、ひとつの祈りに変わっている。
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