第17章−5
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『!!』

 咄嗟に身をかわすことも出来ず、カーマッケンの小さな体はフレデリックの手の中におさまってしまう。
 広い尾びれが抗議するように激しく振られている。

「フレディ!」
「チャーリーさん、何故こんなところに魚が?」

 興味深そうに青い小魚を収めた自分の拳を見下ろしながら、フレデリックが普段と変わらぬとぼけた呟きで応じる。

「水槽に戻さないと干からびてしまうじゃありませんか。おや、どこから飛び出して来たんでしょう?」

 きょろきょろと室内を見回している彼の手から、チャーリーは素早くカーマッケンを奪い返す。
 急に鷲掴みにされた小魚はほんの少しだけ彼女の手のひらにぐったりと横たわっていたが、やがてふらふらと覚束ない動きで宙に浮かび上がった。

「大丈夫、カーマッケン?」

 さすがに心配になって声をかける。

 カーマッケンは空中で浮き沈みしつつ小さな円を描くようにしばらくぐるぐると回っていた。
 ぷくぷくと気泡が弾けるような音を口から発している。
 あれがカーマッケンが通常用いている言語なのだろうか。

「カーマッケン!」

 再度強く呼びかけると、空飛ぶ魚はハッと我に返った様子でくるんとチャーリーに向き直った。

『こ、これは、とんだ、ところを…』

「フレディ。ヴァシルの隣に座ってて」
「え? わたしはチャーリーさんのおそばが良いです」
「ソファに座って」
「あなたのお申し付けとあらば」

 命令を拒否した次の瞬間ににっこり笑顔で承諾して、ヴァシルの横に腰を下ろし、あなたはどなたでしたっけと毎度おなじみの問いを発している。
 ヴァシルはすっかり慣れてしまったらしくもう取り合わないコトに決めているようだ。
 フレデリックは質問を無視されても怒ったりしない。
 五秒も沈黙を挟んでやれば自分が問うたことすら忘れるから。

 そんな彼なのに───さっきは明らかに、カーマッケンの台詞を途中で止めさせた。
 一体何故?
 いや、何故かはわかる。
 魚が他の者には知られたくないようなことを口にしかけたからだ。
 それは何だ?

 カーマッケンの台詞を思い出す。
 確かこう言った───何を呑気に構えているのか、あの方は、ナナ…。

 口調から判断するにカーマッケンは何事かを『警告』しようとしている様子だった。
 フレデリックの『正体』をチャーリー達がわかっていないことに戸惑っているようにも見えた。
 シェルがフレデリックを海底神殿に呼ぶワケがないとこの案内役が言ったのには、そうすると別の理由があるのだ。
 恐ろしいほどのトリアタマのせいで会話が成立しないというコトの他に、何か。

 ナナ───…。

 カーマッケンは一体何と続けようとしたのだろう?

 気にはなるが、今この場で問い質すのはやめた方がいいだろう。
 ソファにおさまったフレデリックはもういつもと変わらぬ様子だが、目の前で追及すればまたカーマッケンの口を封じようとするかも知れず、ちらりと横目で見やれば青い小魚はすっかり怯え切っているようだった。
 フレデリックがいない場所で確かめれば済むことだ。

「それで…『海底神殿』まではどうやって行くつもりなの?」

 話題を変えてやると、カーマッケンは安堵したように大きくため息をついてから、すっかり立ち直った早口でこう答える。

『ご安心下さい、単純なハナシでございますですよ。実はワタシ、我が御主人シェル様から授けられました力のおかげで世界の底と地上とを一瞬で行き来することが可能なのです。その能力を用いて皆様を「海底神殿」までお連れ申し上げる次第です』

「なるほど、一瞬でね」

 口には出さなかったが話が早くて助かる、とチャーリーは思った。
 思った直後に、ふっと不安が胸をよぎる。

「いや、待って」

 思わず片手を挙げて、何事か喋り続けようとしていたカーマッケンを遮っていた。

「すると私達には、君に頼る以外に海底神殿から地上へ戻って来る手段がないってコトになる」
『左様でございますが…何か問題が?』
「私達が地上に戻れる保証がない」
『は』

 きっぱり言い切ると、カーマッケンは言われているコトの意味がさっぱりわからないと言いたげにつぶらな黒い目でチャーリーを見返して来た。
 理解の鈍いカーマッケンにやや苛立ったように少しだけ口調を尖らせて、チャーリーははっきりと自分の考えを述べてやる。

「海底神殿で移動魔法が使えるかどうかはわからない…多分使うことは出来ないと思う、根拠はないけど。そうなると帰るときになって君が拒否すれば、私達は海底神殿から出られないってことになるでしょ? 実は案外それが目的なのかもしれない。私達を海底神殿に閉じ込めることが」

『なッ! 何をおっしゃるのです! それではワタシが信用出来ないとおっしゃいますのですかッ!?』

「君が、と言うより、シェルを信用出来ない」

 しばし言葉を切って、考え深げに腕組みして、それから呟くように短く付け足す。

「だって、シェルは今メール・シードの中にいる存在に、メールさんの身体を提供してやったんでしょ?」

『メール・シード様…あの、「闇」に選ばれたお嬢様のコトでございますか』

「メールさんを知っているのですか?!」

 唐突にコート・ベルが大声を張り上げた。
 空中でぴょんと跳ね上がって思わずチャーリーの頭の後ろに退避してしまってから、カーマッケンはおずおずとコートに向き直る。

『長い黒髪のお優しいお嬢様でございました。我が御主人シェル様と長いこと話し込んでおられたようでございましたが…』

「メールさんは…どんな、様子でしたか?」

 少しの迷いを声に含ませて、コートは問いを重ねる。
 海底神殿でメール・シードが苦悩したり悲嘆に暮れていたりしたことを知らされるかもしれないと思うと怖かったが、訊かずにはいられなかった。

『メール様は…非常に、落ち着いておられました』

 コートとメールがどういう関係だったのか、カーマッケンは知らないようだ。
 それでも彼の真剣な眼差しに何か感じるものがあったようで、心なしかしんみりした語調になっている。

『我が御主人シェル様とメール様はお二人で話されておられましたので、ワタシはそんなに長い時間メール様のおそばにいたワケ ではありませんが…しっかりとしたご様子でございました』
「そう、ですか…」
「でもよ、そんときはメール・シードは自分のカラダを使うのがあんな奴だって知らなかったんだろ?」

 ヴァシルがソファの上から身を乗り出すようにして口を挟んでくる。

『あんなヤツ───とは…「青」の御方のコトでございますかッ!? 何たる無礼な!! 何たる暴言!!』
「アイツ悪者じゃねえかよ! メールの気持ちをてめえの都合で利用した奴だろ!?」

 思いがけず激しい感情をあらわにして言い返してきたヴァシルの反応に戸惑って、カーマッケンは助けを求めるようにチャーリーの表情をうかがった。

「『青のお方』…それが、今メールさんの身体の中にいる存在の名前?」

 不安げに見守るコートにも怒ったようなカオでこちらを睨んでいるヴァシルにもまったく構わずに、チャーリーは自分が知りたいことを静かに質問する。

『は。いえ、「青の御方」と申されますのは本当の名前というワケではないようなのでございますが、ワタシはそのように呼ばせていただいております』
「どうして『青』なの?」
『いえ…そのようなコトは、わかりかねますが』
「他の色もいる?」
『それは───そう、我が御主人シェル様が「白」であると聞かされた記憶がございますが』
「そう…」

「青だの白だのカンケイねーだろ?」

 チャーリーが『青』のしたことについて言及しなかったからか、やや不満げにヴァシルが吐き捨てる。

「ちょっと話がズレたようだけど。とにかく、往復の手段が一種類しかないのに海底神殿なんて得体の知れない場所へ行くのは危険過ぎる。他にそこまで行く方法はないの?」
『他とおっしゃられましても…海の中を通って御案内するコトも可能ではございますが、おそらく皆様のお身体がもたないのではないかと思われますですよ。水中で呼吸が出来る魔法をお使いになられたとしても、さすがに海の底の水圧は如何ともし難いでございましょう? それに大変お時間がかかってしまいますです』
「その他は?」
『───チャーリー様、何をそのようにお疑いになられる必要があるのでございますか? 我が御主人シェル様は皆様を世界の底に閉じ込めたりなさるような方では断じてありません。それに…八つの宝石の一つは「海底神殿」にあるのでございますですよ? 「海底神殿」に御同行いただく他に皆様がとるべき行動はないように思うのでございますが…』

「私だって海底神殿には行く他ないと思ってる。ただ…私達もメールさんと同じ目に遭わされる可能性がある、と気づいてね」
『同じ目…とおっしゃいますと?』
「永遠に生き続ける精神だけの生命体が五人。『青』と『白』を除いても三人残ってる。その生命体も『青』と同じく人間の身体を必要としているとしたら? 四人連れてって誰を使うつもりなのかまではわからないけど」

『………』

「そういうコトが考えられる以上、いざってときに自力で逃げられないような場所に行くのは非常に危険でしょ。それとも、カーマッケン」

 黙り込んでしまった青い小魚を強い視線で見据えて、チャーリーは言う。

「君が約束してくれる? 何が起ころうと私達が戻りたくなったときに私達全員を、無事に地上へ帰してくれるって。四人揃って、一人も欠けずに、ね。君のご主人が私達を騙すようなヒトじゃないって言うんなら」

『我が御主人シェル様は…かような卑劣な方ではございませんッ!!』

 ぱしッ、と音が聞こえそうな激しさで、カーマッケンの身体が一瞬発光した。

『ええ、この深青のカーマッケン、確かに皆様にお約束いたしますとも。何があろうとどのようなことが起ころうと、確実にチャーリー様達を「海底神殿」からこの地上へ、お申し出があり次第に安全かつ迅速にお送り申し上げますとも!』
「間違いなく?」
『間違いなくでございます! このカーマッケン、生まれてこの方一度も約束を違えたコトはございませんッ!!』

 甲高い早口で懸命にまくし立てる。
 尾びれを広げ気味にして必死に主張する姿を数秒見つめてから、チャーリーはふっと表情を緩めて小さくうなずいた。

「じゃあ、君を信じる。これからすぐ?」

『は。え、ええ、出来得る限り早急にとのことで』

 いともあっさりと信用されてカーマッケンは明らかに拍子抜けしたような表情を見せたが、魚のリアクションになど爪の先ほどの興味もない様子で、チャーリーは部屋にいる皆を振り返った。

「行こう。いいね?」

 形式的に、ともとれるぐらい感情のこもっていない台詞をヴァシル、フレデリック、コートの三人に投げかける。
 声をかけられて、ヴァシルは勢いよくソファから立ち上がった。

「よしッ、行こうぜ!」
「チャーリーさんと一緒でしたら、どこへでも行きますよ」

 フレデリックも立ち上がる。

 それまで無言で成り行きを見守っていたアントウェルペンだったが、今にも旅立ってしまいそうなチャーリー達の様子を見てまた心が騒ぎ出した。
 先刻まで皆雨の中を走り回っていたのだから、もう少し体を休めてからにしてはどうか。
 あと数時間───せめて夜が明け切るまでここにいてはどうか。

 口にしかけて、けれどその声を飲み込む。

「行きましょう」

 黙っていようと決意した瞬間、孫の凛とした声が部屋の空気を震わせて。
 自分は一体いつの間にこのように弱くなってしまったのかとアントウェルペンは恥じた。

「所長」

 チャーリーの声に視線を向ける。

「国王陛下に、私達が海底神殿へ行ったことを知らせておいてもらえますか」
「わかった。引き受けよう」
「それから、すぐに戻ります、と。よろしくお願いします」
「うむ。───気をつけて、な」

 コートだけではなく、チャーリー達も等分に見渡して、アントウェルペンはうなずいて見せる。

「カーマッケン」

 チャーリーが促すと、青い小魚はふわりと皆の頭の上へ舞い上がり、自分がこれからシェルの元まで連れて行く四人の顔をぐるりと見回した。

『それでは、参りますですよ。世界の底、「海底神殿」へ』

 音も光も何もない。
 カーマッケンがそう言い終えたときには、空飛ぶ小魚と四人の若者の姿はその場から消えていた。
 移動や転送の魔法のように光を発することもなく、まるではじめから部屋の中には誰もいなかったかのように、忽然と。

 あまりにもあっけない出立。
 アントウェルペンはしばらくの間呆然とその場に立ち尽くしていた。

 やがて気を取り直すと、ヴァシルとフレデリックが座っていたソファに歩み寄り腰を下ろす。
 王城まで事情を説明しに行かねばと思いつつも、立ち上がることが何故か出来ない。
 膝の上に肘をついて組み合わせた両手に額を押し当てて。

 旅を終えてコートがこの研究所に帰って来るとき、その隣にあの長い髪のメール・シードがいてくれることを、願う。

 あきらめかけていたことなのに、もうあきらめるべきことなのかもしれないのに、何故だか無性に、願いたくなって。

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