第17章−7
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 バイアス湖を取り巻く森は実に奇妙なものだった。

 木立の中の細い道を数歩進んだだけで、もう元来た方角がわからなくなってしまった。
 気づけば前後左右あらゆる方向を立ち並ぶ木々に遮られ、進むも退くも出来なくなるかと思いきや、足下に延びる道に沿って進めば不思議と進路を邪魔する木々は消滅している。
 道に従う限りは前進も後退も好きなように出来るが、視界は常に密集した木の幹に妨害されていて、先の方を見通すことは不可能。
 加えて歩いても歩いても周辺の景色に目立った変化が見られないため、その場で単に足踏みをしているだけのような錯覚に陥ってしまう。

 自分達は本当にちゃんと移動出来ているのだろうか…不安になって仲間の表情を盗み見てしまうイブ。
 マーナはいつものごとくお気楽そのものの表情でこの事態に戸惑っている様子はないし、サイトも落ち着いた様子でしっかりと前だけを見据えて歩き続けている。
 自分と同じように皆の顔を見回していたフォスタートと視線がぶつかり、どちらからともなく大した意味もなく微妙な笑顔を交わし合った直後、サイトが不意にぴたりと足を止める。

「この辺りでどうでしょう」

 イブを振り返る。

「十分奥まで来たと思うのですが」

「へっ?」

 何のことだかわからないとばかりに見返すイブに怪訝な瞳を向けて、

「森に入ってからもうかなりの時間が経ちましたし」

 そう言ってから、サイトは空を見上げる。
 イブもつられて見上げた。
 頭上も梢に覆われていて空の様子はよくわからなかったが、そう言われてみれば森に入ったときよりもほんのわずかに辺りが薄暗くなっているような気がする。

 緑の葉っぱの隙間から青い部分が覗いているのだから雨雲が出て来たり急に曇ったりしたワケではなさそうだし、そうすると明るさの変化は太陽の傾きによって生じたものということになる。

 だけどそんなに歩いたかなぁ?
 イブはちょっと考え込んだ。

 フォスタートさんの背中から降りたのは、午後をかなり回ってからのこと…バルデシオン城から全速力かつ一直線に飛んで来たから、夕方になる前にバイアス湖に到着出来た。

 全力飛行するドラゴンの背中にしがみついているのは結構大変だった。
 本来は水中で息をするために使う呪文を用いて呼吸を確保しておかなければならないほどの速度だった。

 でもそのおかげで、日没まではまだまだ余裕があったハズ。
 少なく見積もったとしても二時間程は。
 それなのに…自分達は森に入ってからそれだけの時間をもう歩いたと?
 いや…同じ景色ばかりが続いたから時間の感覚は麻痺してしまったのかもしれないけれど…それにしたって、全然くたびれてもいないのに?

 腑に落ちない表情で沈黙してしまったイブに、サイトはゆっくりとした口調で説明を始めた。

「この森を包んでいるエルフの魔法は、中にいる者の疲労を吸収してしまうのです」
「え?」
「この森の中にいる限り、何日何週間歩き続けようとも我々は少しの疲れも感じませんし、空腹や喉の渇きに悩まされることもありません。それが、エルフがこの森にかけた魔法が持つ最も大きな力です」
「どうしてそんな魔法を?」
「不用意に森に迷い込んだ者が、この森で生命を落とさぬためです。この森は広大ですから、巡回しているエルフにも発見出来ないような場所に他種族の者が紛れ込む可能性もありますから。特にこの道を外れて木々の間に分け入ってしまえば…」

「勝手に入り込んじゃったヒトでもエルフさん達は助けてくれるんだね」

 マーナが感心したように言う。
 サイトは短くうなずいた。

「必ず見つけ出し森の外に送り届けてくれます。自分達の森で迷って死ぬ者が出ることなどエルフは認めないでしょう。非常に正義感の強い種族であると聞きますから」
「それで、森全体にそんな魔法を…維持するだけでも大変ですよね?」

「エルフにとってはそうでもないようですよ。我々とは比較にならないぐらい魔力や精神力の容量が大きな種族ですから…エルフの中でも特に優れた能力を持つ高位エルフとなると、チャーリーさんや…ガールディー・マクガイルと同等、もしくはそれを上回る可能性もある魔道の力の持ち主が複数存在するそうですし」
「そうなんですか?」
「私が聞いた話では、ですが」

「高位エルフさんがあたし達を手伝ってくれればいいのにねぇ。そしたらラクなのに。…って言うかさ、エルフさん達ってバハムートと同じ『光』の種族なんでしょ? 『闇』が相手なんだから力を貸してくれるんじゃない? 宝石を渡してくれるだけじゃなくて」

 ダイブイーグルのスバルを頭に乗せたマーナがふと思いついて明るい声で提案するが、サイトは真面目な表情を崩さぬまま首を左右に振った。

「エルフが直接我々の手助けをすることは出来ません」
「どうして?」
「邪竜人間族と戦うのは我々善竜人間族の役目です」
「そ、それはそうだけど。今は『闇』と」
「『闇』はまだ明確に姿を現してはいませんし」

「でっ、でも、ガールディーさんは言ってましたよ」

 断言したサイトにマーナがさらに食い下がる。

「バルデシオン城に来たときに…ほら、水盤のメッセージで。あの水ガブくんが飲んじゃったけど。『闇』に意識を乗っ取られつつある、って」

「その通りです」

 サイトは静かにうなずく。

「つまり、それって『闇』のしわざだよね? 明らかに」

「ガールディー・マクガイルはあのとき同時にこうも伝えて来ました。『俺が耐えられるのはもって三ヶ月』と。彼はまだ完全に『闇』に支配されてはいないのです。ガールディーが完全な『破壊者』となっていない以上…邪竜人間族を扇動して世界の平和を脅かそうとする彼の行動を阻止するのは、善竜人間族の役目なのです」

「厳密に定義、されているものなんですか…?」

 いつもの彼らしくもなく一切の反論を受け付けないような語調で一方的に語るサイトに気圧されつつも、イブは敢えて問いを重ねた。
 あまりこの話題にこだわらない方が良さそうだと考えもしたが、中途半端に話を切り上げてしまったときの彼の反応が怖くもあった。
 邪竜人間族のこととなると善竜人間族は人格が変わる傾向にある。
 皇子であるサイトならなおさらのこと。
 語らせた方が良いのかもしれない。
 しかし、イブの思惑とは裏腹に、サイトは彼女を蒼い瞳で一瞥してぽつりと呟いただけだった。

「エルフは『光』の『切り札』ですから」

「『切り札』?」

 無意識に反復してしまう。

 イブの声にサイトは短くうなずき、哀しいような怒っているような、そんな難しい表情で長いこと黙り込んでいた。

「皇子様…?」

 恐る恐るマーナが促すと、サイトはふっと顔を上げて。

「エルフは、善竜人間族とは違って───」

 話し始めた、途端。

 右手側の木立から誰かが歩み出て来た気配と物音。
 イブは慌ててそちらに向き直った。
 他の三人も同様にそちらに身体を向ける。

 いつの間に接近して来ていたのか全くわからなかった。
 四人の目の前に立ったのは背の高い一人の青年だった。
 腰まで伸びた深緑色のさらりとした髪、髪よりは薄い緑色の瞳。
 とても整った顔立ちをしている。
 目で見てそうとわかる特徴があるワケではないが、エルフだろう。
 そうでなければこの森の中で道のない所から平然と出て来られるハズがない。

 エルフの青年は警戒心に満ちた鋭く険しい視線をさっと四人に走らせてから、改めてサイトに目を留めた。

「『光』の竜の皇子…サイト・クレイバー様、ですね」

 感情の読めない声で確認する。

「そうです。…あなたは?」

「里よりあなたをお迎えに上がりました」

 名乗らぬまま、青年は続ける。

 エルフとサイトの間に漂う緊張感に落ち着かない気分になりつつも、イブは生まれて初めて目にするエルフをじっくりと観察した。
 幸い青年はサイト以外の人間には興味がないようで、イブが自分を見つめていることには気づいていないか、気づいていたとしても気にはしていない様子である。

 エルフの青年はサイトよりも頭ひとつ半分くらいは確実に背が高かった。
 すらりとしているが華奢ではなく、がっちりと引き締まった体格だ。
 淡いクリーム色と明るい若草色の組み合わせでデザインされた法衣のような衣服を身にまとっている。
 手には何も持っていないし、腰にも背中にも剣や杖といったものは見当たらない。
 イブから見れば二十代後半ぐらいの青年だが、人間族の十倍以上の寿命を持つ長命のエルフであるから実際には数百年は生きているのだろう。
 サイトよりもフォスタートよりもずっと年上のハズ…。

「えっ、案内してくれるんですかァ?」

 突然マーナがはしゃいだ声をあげて、イブは思わずエルフの青年からそちらに視線を移動させた。

「あ。それじゃイブッてするコトなくなっちゃったね。残念」

 以前に一度エルフに会ったことがあるとは言え、ここまでいつもと変わらぬ様子でいるとは…もはや絶句するしかない。
 その場の雰囲気を読まないコトにかけてはマーナ・シェルファードは天才的な才能を持ち合わせているようだ。
 イブは危うく感動するところだった。

「ご案内致します。…ただし、里にお連れするのはサイト皇子お一人」
「えッ?」
「従者の方はこの場でお待ち願います」
「じゅうしゃ…」

 イブとマーナは思わず顔を見合わせた。

「失礼なことを! イブさんとマーナさんは私の仲間です!」

 すぐさまサイトが反論する。
 いいトコあるなと見直しかけて、でも『イブさんとマーナさんは』ってコトはやっぱりフォスタートさんの扱いは従者なんだとややフクザツな気分になるイブ。
 躊躇なく言い切ったところを見るとサイトにとっては善竜人間族は皆従者って感覚なんだろうか、さすが皇子様。

「それは失礼を。どうかお許しください。…ですが、そうであればなおさら。人間族を我々の里に入れることは出来ません」

「しかし…」

 サイトは困惑した様子でエルフの青年とイブ達とを見比べる。

「そっかぁ…隠れ里に入れないのは、ちょっとガッカリだったなあ」

 特に気落ちした様子もなく、マーナが困り果てているサイトを元気づけるような声で発言した。

「じゃあさ。皇子様、ちょっと行って貰って来てよ。あたし達、ここで待ってるから」
「マーナさん」
「ねっ、イブ。エルフさんがあたし達に来て欲しくないって言ってるんだったら、それはもう仕方ないよ」
「ですが」
「大丈夫、あたし達のコトは心配しないで。この森の中にいる限りはお腹空いたりしないんでしょ? だったら待てるよ。モンスターとか危険な獣とかも出ないっぽいし。大丈夫大丈夫」

 本当に大丈夫そうなマーナの態度にかなり心が揺らいでいるようだが、サイトはまだ迷っている。
 魔法の力に守られた安全な場所であるとは言え、仲間を…それも女性を森の中に置き去りにするなどと、なんて考えているのかもしれない。
 キリがなさそうだったのでイブも背中を押してやることにする。

「平気ですよ、皇子様。マーナの言う通りですし、それにいざってときにはフォスタートさんがいます」

 言いつつとことん存在感の希薄な善竜人間族の魔道士を示して見せる。
 発言権がやっと回って来たとばかりに口を開くフォスタート。

「ご安心下さい、皇子。イブさんとマーナさんは、この私が生命に代えてもお守りします」

 命に代えてもはちょっと大袈裟なんじゃないかとイブは思ったが、サイトはそれでようやく心を決めたようだ。

「わかりました。…それでは、用件が済み次第戻りますので…」

「頑張ってね、皇子様!」
「フォスタート、お二人のことをくれぐれも頼むぞ」
「お任せ下さい」

「サイト皇子。…それでは、行きましょうか」

 それまで無言で見守っていたエルフの青年がおもむろに口を開く。

「はい。案内をお願いします」
「こちらへ」

 エルフは四人に背中を向けると、木立の中へ姿を消した。
 一度だけ皆を振り向いてから、サイトは急いでその後を追って行く。
 二人の姿は森の中へ消える。

 イブは木立に歩み寄り耳を澄ましてみたが、彼らの姿が視界から消えると同時にまだ聞こえて来るハズの遠去かる足音さえ聞こえなくなってしまった。

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