第17章−4
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コート・ベルはチャーリーがなかなか戻って来ないのを心配して迎えに来てくれたらしい。
勝手を知らない研究所の中で彼女が迷っているのではないかと思いついたのだ。
実際は廊下を一直線に進んだだけの突き当たりにいたのだから、どのような方向音痴でも迷いようがなかった。
コートに連れられてチャーリー達が部屋に入ったときには、アントウェルペンも戻って来ていて、ヴァシルと何やら親しげに話し込んでいた。
ドアが開く音を聞きつけ同時にその方向に顔を向けて、何か一言言いかけようとして、しかしヴァシルとアントウェルペンはそのまま何も言わず揃ってぽかんとした表情になった。
二人の視線はチャーリーの左肩斜め上あたりを漂っているものに吸い寄せられて止まっている。
もちろんそこには空を飛ぶ光る小魚、カーマッケンがいるのである。
『なッ、何でございますか? かようなブシツケな…』
ものも言わずじッと自分を見つめ続ける二人の様子に、カーマッケンは気分を害したように抗議しかけ───不意にひどく怯えた様子を見せてチャーリーの頭の後ろに身を隠した。
「…どうかした?」
『食材?! そちらの殿方は食材を見る目でワタシを見つめていらっしゃいますッ! 焼いたら美味そうとか煮てもいいなとかいっそ刺身でとかそのような視線でございますですよッ!』
青い小魚が完全に取り乱して主張する。
…チャーリーにも今のヴァシルの瞳にはそんな風な色が浮かんでいるように見えていたのであえてフォローはしなかった。
「何だよ。そんな、いきなり食ったりするワケねーじゃん」
ソファに深く腰を下ろしたまま、ヴァシル・レドアがとても心外だという口調でカーマッケンに言った。
その台詞に小魚がそろりと顔を出す、が。
「だってまだ小せェじゃねえか。もうちょっとしたらもっと育つんだろ? それからでも」
『やはり! やはりワタシのコトを食料として認識していらっしゃいますッ!』
「ヴァシル…アンタそこまでお腹空いてるの?」
「でも喋るサカナなんかうまいかなァ。マズそうな気がするけど、まあ腹に入れば多少の味の違いなんかは」
「そこまでこんな魚を食べたいワケ…?」
自分ならこんな珍妙なモノを口に入れるのはゴメンだとチャーリーは思う。
カーマッケンを見て食欲を刺激されているらしいヴァシルの感性がまるで理解出来ない。
「別に、今すぐ食わしてもらえるんだったら何でもいいぞ」
「話が進まないからアンタは黙ってて」
チャーリーは自分のすぐそばで細かく震えているカーマッケンを振り向いた。
「大丈夫だって、まさか本気で食べたりしないよ」
「チャーリー君…その───魚、は?」
ヴァシルの向かい側に立っていたアントウェルペンが尋ねて来る。
冷たく冴えた水色の瞳は大きく見開かれて、今もカーマッケンから目線を外せずにいる。
とすると当代随一の大賢者と名高いこの老人も、このような魚は見たことも聞いたことも読んだこともないのだろう。
「海底神殿から来たシェルの使いの者、だそうです」
「海底神殿から…!」
チャーリーが告げた単語を思わず声に出して繰り返したのは、コートだった。
彼にまだ事情を説明していなかったことに気づく。
いや、チャーリーだって今言った以上のことは何も知らないのだ。
地上に来たカーマッケンと最初に遭遇した人物はフレデリックであるようだが、彼が何か情報を提供してくれないかなどとは期待する方が間違っている。
そういうワケで台詞の先を促すように、チャーリーは青い小魚に小さくうなずきかける。
『で、では…大変お見苦しいところをお見せいたしまして、申し訳ありませんでした』
ふわりとチャーリーの後ろから漂い出て、こほんと咳払いを一つ。
薄い尾びれをゆらりと広げて天井近くまで舞い上がり、部屋にいる皆を均等に見下ろせる位置に落ち着く。
明るいところに入ったなのか体から発していた青白い光はいつの間にか消えていた。
『改めて皆様に自己紹介させていただきますです。ワタシの名はカーマッケン───深青のカーマッケンと申します。此度は我が御主人シェル様の命を受けて、世界の底「海底神殿」へとチャーリー・ファイン様とその御一行様を御案内するべく地上へ参った次第でございますのです』
「…ヘンな喋り方だなー」
ヴァシルが無造作な発言で高まりつつあった緊張感を台無しにした。
『ヘンッ?! 失礼ではありませんかそのような! 急なコトとて皆様がおわかりになられるような言語を習得する時間が十分になかったのですッ!』
「ヴァシルの相手はしなくていいから。…今、『御一行』って言ったね?」
『は。左様でございます。我が御主人シェル様は四名の御方をお連れあそばすようこのワタシに命じられたのでございますです』
「四名?」
『チャーリー・ファイン様。ヴァシル・レドア様。コート・ベル様。そして、フレデリック様。以上の方々でございます』
アントウェルペンがゆっくりとコートに顔を向けた。
祖父の視線に応えることもせず、コートは無言で足下を見つめている。
きつく引き結んだ唇にはもはや誰にも覆すことの出来ない決意の色が浮かんでいた。
シェルがコートを呼んでいる。
アントウェルペンの手元にただ一人残された大事な大事な孫、この世に残った唯一の肉親。
コートの旅立ちはもう避けられないこととなった。
つい先刻気持ちを整理したばかりなのに…その事実をこうしてはっきりと突きつけられるとどうしても心が乱れる。
慌てて、しかしさりげない動きで瞳を伏せて他の者には動揺を悟られないようにした、つもりだったが。
「心配すんなよ、ウェル。オレ達がついてんだ」
ヴァシルが明るく声をかけて来た。
「ま、確かにコートはちょっと頼んなさそうだからな。気持ちはわかるけど」
「安易に約束しない方がいい」
陽気な台詞をチャーリーが冷静に遮った。
「海底神殿なんて、これまで誰も行ったことのない…何があるかもわからない場所へ行くんだから。不測の事態はつきものだ。それなりの覚悟はしておいてもらわないと、困る」
「お前な、こんなときにわざわざ二人を不安にさせるようなコト言ってどうすんだよ?」
「無責任に楽観的なコトを言う方がどうかしてる。『光』に選ばれた『戦士』である以上、コートさんだって危険な目に遭う可能性はあるんだから。大したコトじゃないみたいに言うのは間違ってる」
「んなコトお前に言われなくてもみんなわかってんだろ? だからって余計に心配させるようなコトばっか言ったんじゃどうにもなんねえじゃねえかよ。オレの言ってるコトは間違ってるか?」
険悪な雰囲気でチャーリーとヴァシルが睨み合う。
呆気にとられたように傍観してしまっていたコートが、はっと気を取り直してその間に割って入った。
「やめて下さい、お二人とも。…チャーリーさんもヴァシルさんも、わたしのことを心配して下さっているのですね」
祖父と同じ色をした瞳をほんの少し床に落として、それから二人の顔を交互に見比べて、コートはきっぱりとした声で続ける。
「そのお心遣い、感謝します。ですが…わたしは…わたしは、大丈夫です。───無論、自分がお二人と比較するまでもなく無力なことは承知しています。ですが…わたしは、自分で決めたのです。この運命を受け容れ、自分に出来得る限りのことをしようと。メールさんのため…いえ、わたし自身のために。このわたしに出来ること…出来る可能性があることであれば、何でもしようと…」
コートはそして、自分をじっと見守っているアントウェルペンに向かって、穏やかに微笑んでみせた。
「所長…いえ、じいちゃん、だって、わかってくれます…ね?」
「───ああ。わかっている…もちろんだとも、コート」
深く息をつき、大きくうなずいて、アントウェルペンは自分の孫を眩しそうに見やった。
「チャーリー君、ヴァシル君。君達の優しさに心から感謝する。…足手まといになることは確実かも知れんが、コートを頼む。この先わしに出来ることがあれば、何でも協力させてもらうよ」
アントウェルペンにもコートにも何故だかわかった。
チャーリーとヴァシルが自分達の迷いを断ち切るためにわざと目の前で口論してみせたのだということが、何となく。
彼女達はもちろんそのことについては何も言わずにいるが、特にどちらかが謝罪したワケでもないのに数分前までの尖った空気を今では全く引きずっていない様子からもそれはあながち思い過ごしではないように思えた。
唐突に始まったチャーリーとヴァシルのやりとりを目にして、再びまとまりを欠いていたアントウェルペンとコートの心は平静を取り戻した。
第三者が言い争う声を聞くうちに己の中の冷静な部分が目を覚まして、可能性も危険性も正しく見据えることが出来るようになったのだ。
「…フレディも?」
コート達に関する一切はこれでおしまいとばかりにがらりと口調を変えて、チャーリーはものすごく嫌そうにフレデリックを振り向いた。
『我が御主人シェル様は先程申し上げた四名様のお名前をワタシにおっしゃったのでございます。…もしかして、フレデリック様とおっしゃるのは?』
カーマッケンが恐る恐る見下ろす。
小魚が教えられたのは一人一人の名前だけで、どのような人物であるのかまでは知らされていなかったらしい。
チャーリーが視線で示しているのがついさっき自分の名前をどうしても覚えてくれなかった男性であることに気づき、明らかに愕然とした様子を見せる。
チャーリーはカーマッケンの前で何度か彼の名を呼んだはずだが、『フレデリック』とは言わなかった。
『フレディ』と『フレデリック』は別の名前だと思っていたのだろう。
カーマッケンは慌てて高度を落とすと、尾びれをたなびかせながらチャーリーの耳元まで飛んで来た。
『あの方が本当にフレデリック様なのでございますか? 我が御主人シェル様があのような方を「海底神殿」にお招きになるとは、ワタシどうしても信じられませんでございます。失礼ながら何か勘違いをしておいでなのではありませんか?』
ひそひそ声で囁かれても、チャーリーには何とも答えてやることが出来ない。
彼女の知っている人間の中で『フレデリック』という名の持ち主は今すぐそばに立っている長身の魔道士ただ一人。
シェルの言う『フレデリック』がもし別の人間のことだとしてもチャーリーにはどうすることも出来ない。
まあ、この驚異的な健忘症の青年とはマトモなコミュニケーションが成立しないのだから、カーマッケンが人違いではないかと問い詰めたくなる気持ちもわからなくはないが。
チャーリーが黙っているのに苛立ったように、やや声を大きくしてカーマッケンが続ける。
『チャーリー様ともあろう方が、何を呑気に構えていらっしゃるのですか! あの方、フレデリック様でございますか、あの方は、なな───』
そこまで言ったところで。
いきなり後ろから伸びて来たフレデリックの手が、カーマッケンの体を空中から掴み取った。
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