第17章−3
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 部屋から出て後ろ手にドアを閉めると、チャーリーは特に考えもなく左手方向へ歩き出した。
 何となくそちらにフレデリックがいそうな気がしたのだ。

 予感と呼ぶのもはばかられるほど根拠の薄弱な直感が命ずるままに、静まり返った廊下を歩き出す。
 アントウェルペン・ベルが向かったのとは逆方向に。
 チャーリーはアントウェルペンがどちらの方向に歩いて行ったのかはもちろん知らなかったが。

 高い天井の隅に濃くわだかまる闇を時折見上げながら、一人細長い空間を進む。
 途中自分が出て来たものと同じようなデザインのドアを左右にいくつも見かけたが、それらをいちいち開いて中を確かめたりはしなかった。
 そうするのが面倒だったからではなく、通り過ぎて来たいずれの部屋にもフレデリックはいないと判断したのだ。
 それもやはり確固たる理由もなく何となくそう思ったからなのだが、不思議なことに自分の行動が間違っているかもしれないとはチャーリーには全く感じられなかった。

 長い廊下が突き当たり、直角に左へ折れている。
 ベル研究所の内部を案内無しに歩き回るのはこれが初めてのことだから、曲がり角の先がどうなっているのかチャーリーは知らない。
 行き止まりなのかまだ廊下が続いているのか、それとも扉があるのか。
 わからなかったが引き返しても意味がないので、道なりに進むことにする。

 曲がり角まであと数歩の位置まで近づいたところでふと気づいた。
 廊下を青白い光がほのかに照らしている。
 足を止めた。

 光量を落とした頭上の照明とは全く異なる光を放つものが、角の向こうにあるらしい。
 天井…ではなく、チャーリーの目の高さより少し上ぐらいの位置に光源があるようだ。
 足下を照らす青白さに気づくまではわからなかったが、よく見ると目の前の壁も水色に染まっていた。

 白が勝った青色をした淡い光は、さらに仔細に観察すると微妙に明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
 じっと見つめていないとその差を感じられないくらいほんのわずかに…寄せては返す波のように、あるいはゆっくりと刻まれる心臓の鼓動のように。
 このような光はこれまでに目にしたことがない。
 魔法の明かりでも、炎の四大の水晶がもたらす輝きでもない。

 数秒記憶の引き出しを探ってみたが目の前の現象を説明出来そうな情報は取り出せず、チャーリーは小さく息をつくと再び歩き出した。
 考えてもわからないのだからこんなところで立ちすくんで悩んでいても仕方がない。
 それに、鈍く明滅する光を放つものが何であれ、少なくとも殺気や敵意のようなものは感じ取れなかった。
 危険なものではなさそうだ。

 最低限の警戒心だけは維持しておいて、チャーリーはひょいと顔だけ出して曲がり角の向こうを覗き込み───。

「………」

 しばし沈黙した。
 三秒静止。
 リアクション無しで頭を引っ込める。

「あれ? どうかなさったんですか? わたしに何かご用があるんじゃないですか、チャーリーさん? わたしを探しに来て下さったんでしょう?」

 フレデリックの声が聞こえて来るがいつもそうしているように綺麗に無視して、チャーリーはついさっきヴァシル達の前でしたのと同じやり方で額を押さえた。

 いまナニかとても厄介なモノを見た気がする。

 自分の目は一体どうなってしまったのだろう…いやこの場合疑うべきはアタマの方か?
 それにしてもフレディの奴は何で『あんなの』と平然と対峙してられるんだ?

『えッ! チャーリー様? チャーリー・ファイン様なのですか、今のお方がッ?』

 裏返ったように甲高い声が響いて来た。
 床と壁を照らす光が強さを増している。
 どうやら『アレ』は浮いて光るだけではなくものを喋るらしい。
 あまり認めたくない事実をチャーリーがようやく受け容れようという気になる、前に。

『チャーリー・ファイン様! お探しいたしましたッ!』

 ふわりと目の前にそいつが飛び出して来た。

 魚だ。

 一言で説明するなら魚。

 もう少し付け加えるとするならば、体長十センチぐらいの小魚。
 さらに詳細に描写すれば、ウロコの色は空を映した海の青、尾びれがまるでレースのハンカチのようにふわりと大きな、優美なシルエットを持つ細身の魚。

 淡水魚か海水魚かはちょっとわからない。
 チャーリーは魚には詳しくなかった。
 と言うか淡水魚であれ海水魚であれこんなトコロにはいないと思う。

 チャーリーの頭の高さから目の位置まですいと下りて来ると、青い小魚は長い胸びれを慌しく動かしながら誰かから急かされているような早口でまくし立て始める。

『お会い出来て良かったですッ、チャーリー様! なにぶんワタシ生まれて初めて地上に出て来たものでして勝手がわからず、このまま右も左もわからぬ土地で迷子になって朽ち果てる運命かと覚悟していたのでございますですよ! 地上で最も強い魔力反応を頼りに大体の目星をつけてこの建物まで来たは良かったのですが、こうしてお近くまで来てしまうとかえって正確な位置が掴めなくなってしまいまして! 無事にお会い出来て本当に良かったのでございますですよ!』

 言いつつ魚は黒くつぶらな瞳からぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 チャーリーに会えたのが余程嬉しく、それでいっぺんに気が緩んでしまったらしい…というのは何となくわかったが…まだこの魚が何処から来たのかも何故自分を探していたのかもわからず、チャーリーには露骨に胡散臭そうなカオで見返してやることしか出来ない。

 空飛ぶ魚には知り合いはいない。
 喋る魚にも光る魚にもだ。
 そもそも淡水魚であれ海水魚であれ、魚と親しくなったことなどない。
 それにしても魚って泣くんだ。
 呑気に感心していないで慰めてやれば良さそうなものである。

 不意に長い胸びれを動かして妙に人間っぽい仕草で涙を拭うと、青い小魚は気を取り直してチャーリーに向き直った。

『………、これは大変失礼をばいたしました。ワタシとしたことが不覚にもあんまり安心したもので…と言いますか何でございますかこの方は! ワタシが何度名前を申し上げましてもちっとも覚えて下さりません! イジメですかッ? これがかの有名な陰湿なイジメなのですかッ?!』

 泣き止んだと思ったら憤慨している。
 感情の起伏の激しい魚だ。
 小魚がキンキン声で怒鳴る度に青白い光が鮮やかさを増す。
 相当興奮しているらしく尾びれが逆さにした扇のように広がってしまっている。
 それにしてもフレデリックに名前を覚えさせようなどと、知らぬコトとは言えこの魚も随分無駄な努力を重ねたものだ。

 よく響く声にそろそろ耳が痛くなるのを感じつつ、チャーリーは相手を落ち着かせるためにゆっくりとした口調で話しかける。

「まあ、フレディのコトは気にしないで。それより君は何? どうして私を探してたの?」

『は。こッ、これは申し遅れましたッ! ワタシとしましたことがッ!』

 そう言って魚は空中でぴしっと居住まいを正す。

『ワタシ、カーマッケン、と申す者でございますです。深青(しんせい)のカーマッケン、そうお呼びいただいてもいっこうに差し支えございません』
「…はあ」
『世界一の大魔道士チャーリー・ファイン様におかれましては、ご機嫌麗しゅう。不肖カーマッケン、我が御主人シェル様の命によりまして、世界の底「海底神殿」よりお迎えにあがった次第でございますです』

「───海底神殿から?」

 うっとうしそうな態度を隠そうともせずにカーマッケンの長口上を聞き流していたチャーリー、その単語を耳にしてさっと表情を引き締める。

 おそらくシェルがあなた方を呼び寄せるでしょう。

 短い髪のメール・シードが投げた冷たい声がよみがえる。
 つい先刻のことだ。
 まさかこんなに早くとは。

「シェルッて言うのは───」

 細かな点を早速青い小魚に質そうとチャーリーが口を開いた、瞬間。

「チャーリーさんッ!」

 がばッ、とフレデリックが抱きついてきた。
 いきなり、何の脈絡もなく。

「なッ!」
 両腕でしっかりとチャーリーを抱きしめたまま、フレデリックは今初めて見るものに向ける瞳でカーマッケンを振り向いて、
「チャーリーさん、光る魚が空を飛んで喋ってますよ? 不思議ですねえ」
「ちょっ…離れ…!」
「魚はお好きですか?」
『なッ…何をなさってるのですか、ハレンチな! 嫌がるご婦人に無理矢理かようなコトをなさるとは! フケツでございますですよ!』
 カーマッケンが二人のまわりをぐるぐる飛び回る。
「だから! 抱きつく意味別にないでしょ!」
 怒鳴りつつ抜け出そうと身をよじるが、フレデリックはひょろりとした外見に似合わず驚くほど力が強く、逃げ出すことが出来ない。
「はて? わたし達どうしてこのような場所に?」
「ああもう! 忘れるなら抱きつくなッ!」

「───あ、あのー…」

 不意に割り込んだもう一つの声。
 チャーリー、フレデリック、カーマッケン、三人(二人と一尾?)が振り向いた先、ぽかんとした表情のコート・ベルが立ち尽くしていた。

「…何を、なさってるんですか?」

 思わず、といった感じで尋ねてくる。

 …ホントに何をしてるんだろう。

 フレデリックの腕の中でチャーリーはぐったりと自己嫌悪に陥った。

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