第16章−8
(8)
王都の東のはずれ、ベル研究所。
窓に寄りかかるようにして戸外の闇をぼんやりと眺めていたチャーリー・ファインの目の前に、温かい湯気を立ちのぼらせたマグカップがすっと差し出された。
半ば反射的に受け取ってから、振り返る。
この研究所の所長、アントウェルペン・ベルが、チャーリーを見下ろしていた。
冴えた水色の瞳に静かな−それでいてどこか悲しげな−表情をにじませて。
が、それは一瞬のこと。
チャーリーと視線が合うや、彼は穏やかな微笑を浮かべ、マグカップを手にしたまま突っ立っている彼女に丁寧に頭を下げた。
「この度は、世話になったね。噂に名高い大魔道士チャーリー・ファインとこうして対面出来たのは光栄だが───」
アントウェルペンは視線をちらりと背後に動かす。
「…このような状況では素直に感激もしていられない」
二人の背後、丈の低いテーブルの向こうにあるソファでは、コート・ベルが膝を抱えてうずくまるような姿勢のまま身動きせずにいる。
自分の血に汚れた服を新しいものに着替え、雨に濡れて冷え切った身体を温かい毛布でくるんでいたが、その表情はうつろに閉ざされている。
「…コートさんを見つけたのは、ヴァシルです」
ぼそりと応じて、チャーリーは熱い液体に口をつけた。
ミルクのたっぷり入った甘いカフェオレ。
一口飲み込んだだけでその温もりが全身に広がってゆくようだった。
「オレは…何も、してやれなかった」
チャーリーとアントウェルペンの真後ろのソファから、ヴァシル・レドアの声がする。
コートの真向かい、長い足を肘かけから半ば投げ出すようにして、ヴァシルはソファの上に横たわっていた。
組んだ腕を枕代わりにして、唇をきつく引き結び天井を睨んでいる。
「ヴァシル」
「オレはこんなコトのためにメール・シードをコートと会わせたんじゃねえ」
「ヴァシル君」
「どうしてだ?! オレは余計なコトをしたのかよ!」
不意に跳ね起き、ヴァシルはチャーリーとアントウェルペンに向き直る。
「コートとメールは仲が良かったんだろ? もうじきケッコンするって約束までしてたんだろ? なのに、どうしてだ?! 『闇』だかなんだかわかんねえけど、なんであんなコトになるんだよ!!」
怒りや苛立ちをぶつける相手を間違えているということは承知の上で、ヴァシルはチャーリー達に激しい感情を叩きつけた。
自分でも、何故自分が会って間もないコート・ベルや『会ったこともない』メール・シードのためにこれほどまで本気で心を乱されているのかはわからなかった。
理由はわからなくとも、許せないと思った。
メール・シードは、コート・ベルと彼がこれから生きてゆく世界とを守るために、自身の全てを投げ出した。
もうすぐ幸福になるはずだったのに、その全てを突然捨てなければならない羽目になった。
メールとコートは、二人で幸せになるハズだったのに。
それを『光』だの『闇』だのといったよくわからない偉そうなモノ達が無理矢理引き裂き、さんざんに引っ掻き回し、徹底的に台無しにした。
メールとコートはただお互いのことを愛しただけなのに。
ヴァシル・レドアには恋愛感情の何たるかは相変わらずよくわからない。
ただ、それが人間にとっておそらく最も重要なものの一つであることが何となくわかる程度だ。
それでも。
海辺の洞窟での出来事を思い出す。
あの生意気な『イブリース』シーリー・ロシナッティが、花の妖精ユリシアのために、自分達やゲイルス達に立ち向かったことを。
そういう想いは守られるべきなのだ。
軽くみられたり、ないがしろにされたり、ましてや踏みにじられたりしては、絶対にいけない。
それは間違ったことだ。
そして、許せないことだ。
チャーリーは無言でヴァシルを見下ろし、カフェオレをもう一口すすった。
温かな湯気に眼鏡が曇る。
視界が戻るのを待って、チャーリーはゆっくりとヴァシルに言った。
「海底神殿に、行こう」
アントウェルペンがチャーリーに向き直る。
コートの肩がわずかに動いた。
ヴァシルは間髪入れずにうなずきを返す。
「海底神殿に───?」
「そこまで行く方法は、まだわかりませんけどね。メール・シードは───アイツは言った、『シェルが呼ぶだろう』って」
シェル。
海底神殿の番人。
遥か昔、善竜人間族最初の王の前にのみ姿を見せた、伝説の人物。
「問い質したい。コートさんのコトだけじゃない。ガールディーのことも。『闇』が、───『光』が、この世界をどうしようとしているのか。はじまりのときが始まる前から存在していた海底神殿の番人なら、あるいは…」
「わたしも」
「───コート」
「わたしにも、お手伝いさせて下さい」
柔らかな毛布をだらしなく肩に引っかけたまま、浅い水色の瞳にまだ絶望の影を濃く残したまま。
それでもコートは、強くはっきりとした声で言葉をつなぐ。
「いえ。…わたしも、行かなければならないのです」
膝を抱えていた手をほどき、ソファに背筋を伸ばして座り直す。
「わたしは、───『光』に選ばれた戦士なのですから」
雨の中で耳にしたメールの台詞があざやかに蘇る。
最愛の人は告げた、コート・ベルは『光』に選ばれた戦士だと。
『闇』に選ばれたメール・シードは自分の運命を受け容れ、彼女が最善と思えた行動をとった。
だったら、自分も。
負の感情の底にじっと沈み込んでいるべきでは、ない。
『海底神殿』という単語を耳にして、コート・ベルは自分を取り戻した。
メール・シードが最後に行った場所、最後に会った人物。
自分もそこに行くべきだ、行かなければならない、そこに行く権利が自分にはあるのだ。
チャーリーは静かな表情でコートを見返す。カフェオレをまた一口すする。
「…コートさんをお借りします」
「しかし…かえって足手まといになるのでは…?」
いきなりの孫の決意に戸惑ってそう言ってしまうアントウェルペンに、チャーリーは無感動な視線を投げた。
「なるでしょうね、足手まといに」
「お前な、そこまでハッキリ」
「それでも、コートさんは『光』に選ばれた戦士ですから」
戦わなければならない。
たとえ、その力がなくとも。
そして。
力がなくとも───戦う権利が、彼にはある。
「一緒に、来てもらいます」
「はい」
琥珀色の髪をさらりと揺らし、コート・ベルは決意を宿した水色の瞳でしっかりとうなずいた。
第16章 了
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