第1章−5
(5)
ふと足を止めた。
気配を感じる。
グリフォンの洞穴のすぐ近く、濃い緑色の茂みの中に、グリフォンとは違う気配が潜んでいる。
本人はうまく隠れているつもりだろうし、実際ほとんど存在を感じさせないくらいうまく隠れているのだが、チャーリーには通用しない。
さては、卵泥棒か…?
近年、グリフォンの卵料理が美食家たちの間でひそかなブームで、その卵は高値で取り引きされていると聞く。
子育て中のグリフォンは概して気が荒くなっていて、並の人間が太刀打ち出来る相手ではないのだが、産卵直後だけは体力が落ちていて、他の生物に対して友好的な普段よりもさらに大人しくなってしまうのだ。
このわずかな期間、母グリフォンは外敵に対してまったく無防備になる。
危害を加えられても、反撃する力がない。
それに、卵から離れられない母親に食べ物を運んでやらなくてはならないので、父親が留守がちになる。
卵泥棒にとっては一番仕事のやりやすい状態だ。
多分、今、巣の中には父グリフォンもいるのだろう。
奴は、穴の中に母グリフォン一匹になるのを待っているのだ。
チャーリーは基本的にグリフォンそのものが大好きである。
大きくたくましい鷲の翼も、しなやかな筋肉で構成されるスマートな獅子の身体も、憂いと優しさを湛えた黄金の瞳も、すべてが好きだった。
だから、グリフォンに故意に危害を加えようとしている者は許せない。
マジメに職も探さないで、卵泥棒なんて濡れ手に粟の仕事をしているような人間は特に嫌いだった。
向こうはまだチャーリーに気づいていない。
彼女は、いたってさりげない足どりで茂みの方へ歩き出した。
わざと足音を消さずに近づく。
「!」
卵泥棒が、やっとチャーリーに気づいたようだ。
茂みの中の気配が固まった。
彼女は、腰に両手を当てて威圧するようなポーズで相手の潜んでいる辺りを見下ろした。
「大人しく出て来た方がいいよ」
少しだけ威圧的な響きを込めて、言う。
反応はない。
「私はチャーリー・ファインだ」
がさがさがさっ!
勢いよく、卵泥棒が立ち上がった。
髪や衣服に所々葉っぱをくっつけた情けない格好で、チャーリーを見る。
その顔に、たちまち恐怖と驚きの色が広がってゆく。
「ひえッ、ホ、ホントに…!」
茂みから出て来たのは、チャーリーと同年代くらいの、やや痩せ型の青年だった。
彼は目の前に立っている世界最強の大魔道士のもとから一刻も早く離れるべく、泡を食って駆け出そうとした。
「動くなッ!」
一喝。
青年は途端にピタッと動きを止め、情けなくもそのまま茂みの中にヘナヘナと座り込んでしまった。
そうして、すっかり血の気を失い引きつり笑いの浮かんでいる顔をチャーリーに向け、蚊の鳴くような声で言った。
「ま、まだなんにもしてへんよ。ここにおっただけで…手は、出してへんし…」
「まあ、落ち着いて。ここに出て来なよ」
「ホンマに、なんにも…」
青年はすっかり脅えきっている。
チャーリーは苛立って、怒鳴った。
「いいから出て来いッ!」
「へ、へいッ! ただ今!」
青年は慌てふためいた様子で茂みの中から出て来ると、判決を待つ罪人のカオでチャーリーの足元に座り直した。
見るからにオドオドビクビクソワソワして、気の毒なほどだ。
それもそのハズ、世界有数のグリフォン愛好家としても知られているチャーリー・ファインに、グリフォンの卵を盗ろうとしていたところを見られてしまったのだ。
彼女は凄腕の魔法使いである。
だから、もし彼女の虫の居所が悪かったり、ちょっとでも神経を逆撫でしたりしたら、たちどころにモノすごい威力の攻撃呪文で無残な目に遭わされてしまうかもしれない。
小心で無力な彼はそれを恐れているのだ。
「あのね〜…別に、取って食おうってワケじゃないんだから」
チャーリーは苦笑する。
青年は不安げな目で見上げた。
「なんにもしてないんだったら、こっちだってなんにもしないよ。さあ、立って。名前はなんて言うの?」
「へ、へえ…」
彼はまだ警戒の解けない様子で、それでも素直にチャーリーの言葉に従って立ち上がった。
「ああ、せ、せや。ワイはコランド・ミシイズ言います」
「コランド…?」
「盗賊(シーフ)やってますねん…今回は、ホンマにたまたまで、いつもやっとるワケとちゃいますよ。いつもは、盗賊の仕事をしとるんですから…」
聞きもしないことまで、コランドは喋ろうとした。
何もかもすっかり話してしまえば、自分の立場が好転すると確信してでもいるかのように。
しかし、チャーリーは他人の身の上話を聞くのは好きでなかった。
だから、それを片手で制する。
「君のプロフィールは別にいいよ。それより、シーフのコランド・ミシイズッて名乗った?」
「は…へ、へぇ、そうです。ワイはコランド・ミシイズで…」
チャーリーはアゴに手を当てて少しだけ考え込み、それから改めて彼に向き直った。
「もしかすると、王城から戴冠式用のマントを盗み出した、あの…」
「へッ? あ、あれ。ご存じでしたんでっか?
いやあ、あなた様みたいな大先生に名前覚えてもらっとるなんて、光栄ですなァ…」
猫の子一匹潜り込めないと評判の王都の王城に忍び込み、一番奥の部屋にあった儀式・式典のときに王族の人間が身に着ける豪勢な金糸刺繍の真っ赤なマントを誰にも気づかれることなく盗み出し、その翌日城門に自分の名前を大書したそのマントを釘で打ちつけるという大胆不敵な行為によって、一躍有名人になった盗賊がいた。
それが、コランド・ミシイズなのだ。
チャーリーの耳にももちろんその噂は入っており、彼女は抜け目なく鋭い、『影』のようなシーフを想像していたものだったが…。
目の前でへらへら愛想よく笑っているコランドには、そんなイメージは到底あてはまりそうにない。
「アンタがあのコランド…へえ…」
どこか納得できない点の残るチャーリーの様子には気づいた風もなく、コランドはここぞとばかりにまくしたて始めた。
「そうですねんな、初めてワイの名前聞いたヒトは大体信じまへんわ。あの一件で『コランド・ミシイズ』の評判がえらい良うなってしまいましたからな。あれは、ほんの気まぐれでやったコトなんでっけど…なんちゅうか、ワイの実力ゆうモンを試してみとうなって、自暴自棄になっとったところもあるし…そんで、やったんでっけど…何の間違いか成功してしまいよりましてなァ。名前書いたんも、気まぐれなんですわ。ワイは、思いつきで行動するゆうのが…」
「わ、わかった。そのことについてはもうわかったから喋らなくていい!」
「おや、そうでっか? ───それにしましても、こないなトコで天下にその名を轟かせる大魔道士・チャーリー・ファインとお会い出来るやなんて、ワイはホンマ、ツイとりますわ!
世界中のほとんどの人間が名前を知るだけで直接会うことなんて出来ない超有名人!
そんなお方と、こんな間近でお話し出来るなんて!
大先生に関するお噂はみ〜んな知っとりまっせ。アリバール山でのハーピー征伐、ラゼット島西海域における体長二十五メートルにも及ぶテンタクルスとの戦い、そしてペリエーヌ山脈に大発生した食屍鬼、何万とも知れぬアンデッド軍団を相手に、たった一人の大立ち回り!
それから…」
「わかったわかった! もういい、喋らなくって!」
なんてよく喋る人間だ!
チャーリーは半ば呆れた。
彼女自身も決して無口な方ではなかったが、初対面の人間を相手にここまでまくしたてるヤツは初めて見た。
まったくもって、世の中には色んなヒトがいるものである…。
チャーリーに止められて口を閉じたコランドだったが、まだ喋り足りなそうな様子で彼女の表情をうかがっている。
当初の脅えようはどこへ行ってしまったのやら、今となってはすっかり親しみのこもった目でチャーリーを見ているのだ。
感情の切り替えの早い男だ。
チャーリーは少しの間、腕組みして目を閉じて、何やら考え込む様子を見せた。
本当に何かを考えていたワケではない。
そういうポーズを見せることで、コランドの馴れ馴れしさを少しばかりおさえ込もうとしたのだ。
しかし、さすがに盗賊、コランドにはそんなチャーリーの思惑くらいはちゃんと見通せていた。
彼は相手の表情のほんのわずかな変化や瞳の動き、ちょっとした仕草、あるいは言葉遣いや語調などといったことから、かなり奥のそのまた奥まで、その人の心を見透かすことが出来る。
これは生まれながらにしてコランドに備わっていた特別な才能だった。
それでもって、彼はチャーリーの『ポーズ』を見破ったのだ。
「あの〜…そんで、つかぬことをおうかがいしたいんでっけども…」
「…何?」
「大先生は、なんでこんな山の上まで来られはったんでっか?」
当然の質問。
尋ねられて、チャーリーはハッとここまで来た目的を思い出した。
彼女はよく一番最初、大もとの目的を忘れるのである。
「そうだ! アンタのせいでつい忘れちゃってたじゃないよ!」
「へ、へい、すんません!」
とりあえず謝っている。
「もう行っていいよ。私はもっと上に用があるんだから」
片手でコランドを追いやるような仕草をしてから、チャーリーは山頂に向かって歩き出そうとした。
ちょうどそのとき、二人のすぐそば、コランドの狙っていた洞穴から、父グリフォンが顔を出した。
一瞬だけ敵意の表情を見せたが、チャーリーの姿を認めるやにわかに人懐こそうな顔になり、ライオンの尻尾をゆっくりと振りながら、穴の中から出て来た。
四つ足で立った状態でも、チャーリーよりも背丈がある。
そういうのがのそのそと近寄って来たもんだから、コランドは情けなくもチャーリーの後ろに慌てて隠れてしまった。
チャーリーは手を伸ばすと、グリフォンの太い首を撫でてやる。
グリフォンは喉の奥で甘えた声を出しながら、チャーリーの顔に自分の頭をすり寄せた。
「元気そうで何より。ところで、もしよかったら、グリフを呼んで来てくれないかな?」
グリフォンは一度頭をしっかり縦に振ると、チャーリー達から少し離れた所まで歩いて行って、それから立派な翼を広げた。
目を見張るほどに美しいものだ。
自然に鍛え上げられたしなやかでたくましい筋肉、きれい好きなグリフォンがしょっちゅう羽繕いするために常に艶やかな羽根、何より全体のバランスからして優れている。
どの方向からでも鑑賞に堪え得る姿。
チャーリーがグリフォンをこよなく愛する理由の一つでもあった。
広い翼で羽ばたく。
四方に広がる風が起こって、片手で目をかばっている二人の見ている前でグリフォンは空に舞い上がった。
空の高みにまでのぼっていき、そして水平飛行に移る。
グリフォンは、翼を広げたままグライダーのように滑空する。
チャーリーはグリフォンの姿が洞穴群のある岩場に消えるまで、立ち尽くして見送った。
いつ見ても、ほれぼれするような飛翔の姿。
彼女はフウッとため息をつくと、肩から力を抜いて、腰に両手を当てた格好で足もとに目を落とした。
「───グリフォンに知り合いがいたはるんでっか…?」
コランドの声。
チャーリーは振り返った。
「ああ。ちょっとね…卵泥棒退治の一件で」
彼はまたギクッとしたような顔を見せたが、今度はすぐに気を取り直した様子だ。
「団体で卵泥棒しにくるヤツとか、やっぱおるんでっか?」
「そうだね。何人かで来てるヤツの方が多いみたいだよ。普通は五、六人、多い時には十五、六人ぐらい…。あのとき、山に来たのは特に大人数のグループで、三十人くらいはいたかな?
一つの商売としてやってるらしくてね。護衛に傭兵とか、中レベルの魔道士なんてのも連れてた」
「そんなんするヤツおるんでっか!」
「卵泥棒は金になるからね…。そいつらが来たとき、私はたまたまここにいたんだ」
「…とゆーコトは、とーぜん」
「当然、迎え撃ってやったよ。連中の慌てようったらなかったね。ちょうど、さっきのアンタみたいに」
「え…いやははは…」
「ちょっと痛い目には遭わせてやったけど、すぐ逃げてったんで深追いはしなかった。二、三年前のコトだよ。その前から私はグリフォンが好きだったんだけど、仲良くなったのはそれからだね」
「相手は三十人やったんでっしゃろ?
それをおひとりで…」
コランドが言いかけたとき、頭上で羽ばたきの音がした。
気づいて振り仰ぐより早く、一頭のグリフォンが二人の前に優雅にすら見える動作で降り立った。
さっき飛んで行ったヤツより一回り近く小さかったが、それでも威圧感があるほどの大きさ。
グリフォンは地面に降りるや、チャーリーに駆け寄って行って頭をすり寄せた。
顔についているのが鷲のクチバシでなければ、ほっぺたでもなめそうなほどのなつきようだ。
そして、身体がもう少し小さくて、鋭いツメがなければ両肩に手をかけて押し倒しでもしそうなほどのはしゃぎよう。
「よしよし、久しぶり! 元気だった? 変わったコトなかった?
わかったわかった、グリフ!」
チャーリーは満面に笑みを浮かべながらグリフの首やら顔やらをかなり手荒く撫でてやり、最後にクチバシの横にキスしてやった。
「…そんなんしたら、オウム病にかかるんとちゃいまっか?」
「…?」
なんだかよくわからないコトを言うヤツだな、という目でコランドを見てから、チャーリーはグリフに言った。
「グリフ、ガールディー先生に会いに行かなくちゃならないんだ。島には魔法じゃ近づけないから、連れて行ってほしいんだけど…」
グリフォンは大きく首を縦に振った。了解のサインだ。
「よし、それじゃあ早速…」
と、グリフォンの背中に飛び乗ろうとしたチャーリーの、その身に着けているマントをコランドがいきなり引っ張った。
危うく転びかけたが、なんとか体勢を立て直し、コランドの方をキッとにらみつける。
「何すんの! 危ないじゃないか!」
「い…いや、えらいスンマセン…せやけど、大先生、今…何言わはりました?」
チャーリーはハッと気づいて、今さらながら口に手を当てた。
ガールディー・マクガイルがチャーリー・ファインの師匠であるということは、実はほんのわずかな人間しか知らないことであるのだ。
コランドはひどくビックリしたような顔でチャーリーの方を見ている。
これは、ガールディーについての噂も確実に知っているカオだ。
チャーリーは内心舌打ちした。
面倒なコトになってしまいそうだ、と。
「何って? 私、変わったコト言った?」
「変わったコトゆーか…あの、ガールディーが…何て」
もう一度、心中で舌打ちする。
仕方ない。
盗賊を口先で丸め込む自信はなかった。
特に、立て板に水の勢いで喋り倒すのを得意としているような相手ならなおさらのこと。
「そのことはもう追究しないってのは、どうかな」
「…出来まへんなぁ」
コランドの瞳が一瞬、鋭利な刃物のように光った。
まったく、十数分前とはエライ違いだ。
今じゃ、チャーリーに楯突いて、彼女に不利な情報を、彼女の口から直接語らせようとしているのだから。
チャーリーはタメ息をついた。
そして、少しの間考えた。
無視してこのままコランドの前から姿を消してしまうことはたやすい。
しかし、そんなコトをしたらコイツはあることないこと全部引っくるめて自分に関しての妙な噂を世間に流すだろう。
それこそ、自分が諸悪の根源であるかのようなひどい噂が飛び交うコトになるに違いない。
コランドなら、やりかねない。
そんなことをされるぐらいだったら、今ここでちゃんと説明しておいた方が、かえって大人しくしていてくれるのではないだろうか…。
「わかった、説明する。でも、私は一刻も早く聖域の洞窟まで行かなけりゃならない。もし聞きたいんなら、アンタもついといで」
「よっしゃ、もちろん行きますがな! 好奇心に勝る感情はこの世にはおまへんさかいにな」
無邪気に喜ぶコランドの横で、チャーリーはグリフに耳打ちした。
「上空でアイツ振り落としちゃおうか」
「…あの、チャーリーはん?」
「いやいや、別に何でもないよ」
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