第3章−4
(4)
ヴァシル、トーザ、コランドの三人は無事−海の真ん中に放り出されてしまうこともなくという意味で−海辺の洞窟の前までやって来ていた。
ただし───。
「ちっくしょー、やっぱり狙いすましてやがる!
アイツ!」
トーザとコランドは洞窟が黒々と口を開けているすぐその前に着地したというのに、ヴァシルだけはその横に生えていた大木の中程の梢に頭から突っ込んで引っかかってしまっていた。
ばさっと顔を上げて、枝の上に足をぶらんと下げて腰かける。
「大丈夫でござるか、ヴァシル?」
足の下からトーザの声が聞こえる。
「飛び降りるからどいてろよッ」
言うや否や、三メートルはあろうかという高さから一寸のためらいもなく身を躍らせる。
膝のクッションをうまく使って着地の衝撃を和らげ、何事もなかったかのように立ち上がって辺りを見回した。
大木の根元から遠去かっていたトーザとコランドが歩み寄って来る。
「アイツの魔法はやっぱり信用できねー!」
「ヴァシルはんて、魔法がうまく作用せえへん特異体質と違いますのん…?」
「違う! アイツがわざとやってんだよ!」
「ま、まあまあ、ヴァシル…ケガはなかったんだからもうよいではござらんか」
「オレがケガしてても呪文で治せるからいいじゃないかって言うんだろ。お前はいっつもチャーリーの肩をもつんだからよ!」
「拙者は別に…ただ、ここにいない人間の悪口をいくら言っても仕方ないのではござらんか?」
「…それもそーだよな。くそッ、後で文句言ってやる!」
「それより…コランド殿、この洞窟で間違いないでござるな?」
「そうですわ。いやぁ、転送魔法いうのは便利なもんですなぁ。商売になりますで」
ヴァシルは髪にくっついたけむしを取ると、地面に放り投げた。
トーザとコランドは洞窟の入り口に体ごと向き直った。
入り口から一〇メートルもいかないところから深い闇が始まっている。
ごつごつとした岩肌のような地面が、かなり急な斜面を構成して洞窟の奥へ下降している。
海の近くにあるわりに内部は乾燥しているようだった。
あくまで見える範囲のことであって、奥に入るとどうなっているのか皆目見当もつかないが…とにかく、ぬめる足元に転倒して滑落するという危険はとりあえずなさそうだった。
「…明かり」
ヴァシルがトーザの方を見る。
トーザは洞穴に一歩足を踏み入れて腕組みした。
「こりゃあ相当深い洞窟でござるよ。拙者の魔法が効力を失う前に往復出来るかどうか…」
闇を照らし出す照明魔法のことを言っているのだ。
この魔法には少しおかしな制約がある。
まず、一つのダンジョンにつき一度しか唱えられない。
次に、魔法の効果は術者の精神力の続く限り持続するが、術者の精神力がカラになってしまうとどんな状況であろうが有無を言わさずに明かりは消える。
そして、消えたら二度と点けられない───一度、洞窟の外に出ない限りは。
右も左も分からない洞窟の中で、暗闇の真っただ中に放り出されてしまうのをトーザは危惧しているのだ。
ましてや、この中で回復魔法が使えるのはトーザだけ…中にどんな敵が待ち受けているのか、どこでどんなケガをするのか分からない以上、回復分の精神力は残しておきたい。
照明魔法を使えば精神力は一秒ごとに削りとられていくので、最悪、使わなければならないときに魔法が使えないということになりかねない。
「コランド、たいまつとか持ってないのか?」
お前盗賊だろ、という顔を向けるヴァシル。
「ポータブルカンテラがありますけど…かなり暗いでっせ?
ワイは夜目が利く方やから、仕事のときには手元と足元だけ明るかったらええもんやから…」
「それでいいよ。オレ達だって、地形がわかりゃ十分なんだから」
「それやったら、用意しますわ…」
コランドはベルトに提げた袋の一つの中から、手の平にすっぽり収まってしまうくらいの小さな金属の塊を取り出し、何やらガチャガチャやり出した。
そうしているコランドの腰には、右に三つ、左の背中に近い方に二つ、ベルトにくくりつけられて小さな袋が吊り下がっている。
中に何が入っているのかは見た目にはわからないが、左についている二つの袋は他の三つに比べるとずっしりと重そうに見えた。
コランドは手慣れた様子でポータブルカンテラを組み上げた。
金属で出来た直方体の枠組みに、細かい穴を空け不燃剤を塗りつけた薄紙を張って、中の火を風から守る。
確かにあまり明るさは期待出来そうになかった。
「よし、行くか」
ヴァシルの言葉に、トーザとコランドは黙ってうなずいた。
☆
カンテラを片手に持って足元を照らしながら、コランドが先頭を行く。
特に危険な所もなく、狭くも滑りやすくもなっていない、ただちょっと歩き心地が悪いだけの岩地が続いていた。
魔物の気配も───他のどんな生き物の気配も───感じられない。
ヴァシルとトーザはコランドの五歩ぐらい後ろを肩を並べてついて行く。
一応周囲に注意を払ってはいるが、それほど警戒はしていない。
当分何も襲っては来ないことがわかっているからだ。
どんなモンスターだろうと、三人の足音と息遣いの合間にカンテラの中で火が燃える音が聞こえてくるようなこの静寂の中を、まったく気取られずにヴァシル達に飛びかかってくることは不可能だ。
…ぞっとするような静けさだった。
嵐の前の静けさ…向こう側に、何かとんでもない災難を隠しているような静寂。
一種不気味であり、また少し荘厳ですらあった。
そんな雰囲気に耐えかねたように、ヴァシルが前を行くコランドの背中に話しかけた。
「おい、なんにもいねーじゃねぇか」
決して大きな声を出したわけではないのだが、ヴァシルの声は静まり返った洞窟の中で反響してヤケに大きく聞こえた。
「まだまだ。ここはまだ入り口でっせ」
コランドが振り向かずに答えた。
その声もやはり、実際より大きく聞こえる。
「だいぶ歩いたじゃねーか」
「だいぶ? 五分も歩いてまへんで?」
「……?」
「暗闇は方向感覚も時間の感覚も狂わすんです。まっ、ワイを信じてついて来はったら間違いありませんて。こういうとこには慣れてますからな」
「ところで、コランド殿。ここには一体、どのようなモンスターが潜んでいるんでござるか?」
トーザが問う。
コランドはやはり振り向かずに、
「やっぱり聞いときたいですわなァ。驚いて逃げんといて下さいよ」
「そんなにとんでもないモノがいるのか?」
ヴァシルがさっきよりも声のトーンを上げて尋ねた。
「お二人にやったら倒せると思いますけど」
「何がいるんでござるか?」
「トロールですわ。トロール」
「ト…トロール?」
「そう。ありがちでっしゃろ、オーガーとかトロールが宝石を守っとるとゆーシチュエーションは」
「何匹?」
ヴァシルが問いを重ねる。
「一匹。たった一匹です」
「一匹…なんだ、もったいぶった言い方するから、十匹以上いるのかと思ったじゃねーか」
「ワイが見たのはね」
「…おい」
「その一匹の背中を見かけるなり逃げ出したもんやから、結局何匹おるのかということはちょっとわかりまへんな」
「…役立たず」
ぼそりと呟く。
横でトーザが苦笑い。
コランドがくるりと振り返った。
「しゃーないやないですか、しがないシーフのワイにたとえ一匹でもトロールが倒せるワケおまへんやろ!
勝ち目のない戦いはせんに越したことはないんです。つまりアレですな、三十六計逃げるに如かず」
そう言って、あははと無意味に一人で笑うと、コランドはまたヴァシルとトーザに背中を向けて前進し始めた。
立ち止まっていた二人もつられるように歩き出す。
「しかし…トーザ、どう思う? トロールは結局何匹いると思う?」
「う〜む…そうでござるなァ、トロールというのは通常、十匹から十五匹のグループで行動するモンスターでござるからして…」
「十匹から十五匹…」
むむむむっ、と腕組みしてうつむくヴァシル。
「どうかしはりました?」
コランドが顔だけヴァシルの方へ向けた。
足は止めずに。
「やっぱり逃げたくなったんとちゃいますか」
「バカ言え! お前、分かってんのか? トロール十匹だぞ。いや、十五匹か」
「せやから怖じけづいたんでっしゃろ?」
「お前、お前なァ、やっぱり盗賊には格闘家の気持ちは理解出来んだろうがな」
そう言うヴァシルの肩がふつふつと揺れている。
コランドは足を止めて体ごと振り返り、足元を見つめながら歩いて来るヴァシルの顔を眉を寄せて覗き込む。
ヴァシルとトーザも足を止めた。
ヴァシルの肩はなおも揺れている。
…くっくっと、声を殺して笑っているのだ。
「…バトルマニア?」
コランドは少しだけ醒めた瞳をトーザに向けた。
「近頃活躍の機会がなかったでござるから…」
「ぃよおっし! 久々のモンスター退治だ、ぜんぶオレに任せろコランド!
さあ、張り切って先へ進もうぜ! 急ぐぞッ!」
ちょっとだけ異常な明るさで顔を上げたヴァシルを見て、コランドは慌てて体の向きを換えて再び洞窟の奥へと歩き出した。
ヴァシルの言った通り、コランドのようにモンスターを見たら逃げ隠れすることしか考えられない人間にとって、魔物退治に少しばかり普通でない快楽を見い出してしまう人種はやはり理解の範囲を超えてしまうものだということだ。
トーザはヴァシルのそんな性質をよく知っているので今となっては何も感じないが、コランドにはかなり気持ち悪く感じられたのだろう。
先程よりほんのわずかだけ速足になるコランド。
物も言わずに後を追うヴァシルとトーザ。
さらにしばらく進んだ所で、コランドが唐突に足を止めた。
ヴァシルとトーザの少し前で、右足を一歩踏み出した格好のままで固まってしまっている。
「…どうした?」
小声で言いながら、ヴァシルはコランドの一歩後ろまで進んだ。
トーザはコランドの二歩後ろで立ち止まり、自分達の前方にある闇に目を凝らす。
姿は見えないが、そこに何かいる。
気配を感じる。
「いやいや、やっぱり一匹だけとはちゃいましたな」
コランドは言いながら後退った。
ヴァシルはその手からカンテラを引ったくると、頭上に掲げて前方を照らす。
このうえもなく頼りない光だったが…その明かりの中に、ぼんやりと浮かび上がった、三匹のトロールの巨体。
トロールの身長は三メートル前後、大きくても四メートルに達することはない。
そういうモンスターが背筋を伸ばして悠然と立っているのだから、この洞窟の天井の高さはかなりなものだ。
…いや、天井が高いのではなく、床が次第に低くなって行ったからこんな空間が出来てしまったという方が近い。
今、ヴァシル達が立っている所は、三〇度弱の傾斜で下に向かっているが、トロール達の足場は平らになっているようだ。
もしそこに立っているのはトロールでなくて人間だったら、ヴァシル達が少し見下ろすぐらいの高低差が出来ているのだが、相手が相手だけにそんな差はまるで意味がない。
逆に見下ろされてしまっている。
───そう、トロール達はヴァシル達の存在に気づいていた。
闇が支配するこの洞窟の中ではポータブルカンテラの明かりでさえ眩しく目立ち過ぎたということだ。
ヴァシルはコランドの手にカンテラを押しつけた。
光が下がり、トロールの姿が再び闇に沈む。
「あ、明かりはなくてええんでっか?」
「ああ、もう必要ない」
自分が立ち回るのに必要な範囲の地形も、相手の位置もしっかりと頭に叩き込んだ。
カンテラなどもう邪魔なだけだ。
相手がもっと小柄な奴だったら照明が必要だったかもしれないが、トロールのように図体のデカい奴を相手にするのなら気配を探るだけで十分対処出来る。
気配さえ把握出来ていれば、トロールから攻撃を外す方が難しいくらいなのだから。
「お前はここに立ってろ。トロールは絶対そっちにやらないから逃げるなよ。トーザ、行くぞ!」
「承知!」
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