(8)
月の光の一筋も差さぬ本当の闇が支配する森の中。
木の根に足をとられローゼは何度も地面に転がった。
一昨日の雨がつくった水たまりに顔から突っ込み泥まみれになる。
それでもすぐさま跳ね起き再び駆け出す。
暗い森の中、何度も木の幹に身体をぶつけたけれど、走る速さを緩めない。立ち止まることさえしない。
走る速さを緩めることも、立ち止まって休むことも、身体が許してくれなかった。
生きたい生きたいとうるさいぐらいに叫び続けるローゼの身体はそれを許してくれなかった。
それでもローゼは、逃げ切れなかった。
「…ローゼ」
そこにローゼが走って来ることは世界の始まりからわかっていたのだと言わんばかりの落ち着きをもって、シフは彼女を待っていた。
木立の中にぽっかり空いた丸い広場の真ん中で、そこだけ差し込む月の光を全身に受けて、シフはローゼを優しく見つめる。
べったりと血に濡れた顔、同じく血に濡れた服。それらは全てシフの血ではなさそうだ。
「シフ…」
なのに。
鮮血にまみれたシフを目にしてなお、この場にいるのが自分とシフの二人だけだということに、…ローゼは安堵していた。
シフがいる、すぐそばにいる、もう少しで手の届くところに、ローゼを待ってくれている。
安心出来る要素なんてどこにもないのに。
それでもローゼは、シフの姿を目にして、泣きたいくらいに安堵してしまっている。
「ローゼ…信じられないかも、しれませんが…いえ、あなたはきっと、信じては下さらないでしょうが…。…あなたに信じてもらえないことは、わたしにとってはとても悲しいことなのですが…」
呆然と立ち尽くしたまま、消えそうに細い声で、けれど何故か非常に鮮明に耳に届く声で、シフはローゼにゆっくりと語りかける。
「わたしは…わたしは本当に、本当に…ローゼ、ローゼ・イクス、あなたのことを、愛しています…こんなひどいことをしておいて、どの口がそのようなことを言うのかと思うかもしれませんが…それでも、わたしは…ローゼ、あなたが、…あなたが大事です」
いきなり涙が溢れた。
泥と血に汚れたローゼの頬を、涙は後から後から伝って落ちる。
拭うことも忘れてローゼはシフを見つめ続ける。
何てことだろう。
自分は何て人間なんだろう。
あれだけのことがあって。
目の前であんなことがあったばっかりなのに。
どうしよう。
どうしよう。
嬉しかった。
シフに愛していると言われて、大事だと言われて、ローゼは泣き出すぐらいに嬉しかった。
涙が止まらなくなるほどに嬉しかった。
「ローゼ、わたしの大切なローゼ。信じてくれますか…? わたしはあなたの村を焼いた…親切にしてくれた村の方々を一人一人、殺して回った…祈り続ける老人も…泣き叫ぶこども達も…あなたの村人達を一人残らず…殺してしまった。それでも…それでもわたしは、あなたを、愛している…こんなにひどいことをしておきながら…ローゼ・イクス、わたしはあなたが…大事なんです…」
シフの青白い頬にも涙の筋が光っている。
琥珀の瞳をうつろに見開き、シフはローゼを見つめている。
ローゼは何度もうなずきを返す。
何も言わないまま、うなずき続ける。
「わたしはあなたに…あなたにたくさん、嘘をついていた…わざと言わなかったことも含めると…考えられないくらいの数の嘘を、ついていました…。…そんなわたしを、あなたは、許して下さいますか…?」
ローゼはその言葉にもうなずいた。
シフがこれまで自分を騙していたことなど気にならなかった。
シフが正直にそれを告白してくれていることが嬉しくてたまらなかった。
こんな状況で、こんなことが起きてしまっているのに、一体どうしたんだろう、自分は。
一体何を考えているのだろう。
シフは憎むべき敵だ。
シフは村人を皆殺しにした影の仲間だ。
小さな村から一歩も外に出たことがない、世間知らずのローゼだってそのくらいのことはわかっている。
ここまでされたら嫌でもわかる。
なのに。わかっているのに。わかりすぎるほどにわかっているのに。
ローゼは嬉しい。
シフがこうして語りかけてくれていることが嬉しい。
それだけですごく安心してしまっている。
安心出来る要素なんて、本当にどこにも、ひとかけらも、ありはしないのに。
「ローゼ…わたしは、あなたと、ずうっと一緒に、いたいんです」
シフがゆっくりと歩み寄って来る。
何も持っていなかったはずのその左手に、銀色に光るナイフが握られているのをローゼは見た。
不思議と怖いとは思わなかった。
もちろんひどいとも思わなかった。
…もう何も感じなかった。
「わたしは…本当に、あなたのことが…、…あなたを殺すためにあなたに近づいたことは、本当です。もう嘘はつきません。もう決して嘘はつきません。だから…だから信じて下さい、それでもわたしは、あなたを…ローゼ・イクス、ただ一人のあなたを、愛しています…」
シフは一緒に死んでくれるのだと、ローゼは思った。
本来ならばシフはこの後影のところに戻って相応の報酬と地位とを獲得出来るのだろうに、それにも関わらずシフは自分と一緒に死んでくれるつもりなのだと、ローゼは思った。
それが嬉しかった。
もうすぐ殺されようとしているのに、シフも一緒に来てくれるのだと思うと、それだけのことが無性に嬉しかった。それだけのことで本当に安心出来た。
でも。
どうして?
だったら。
だったらシフは。
どうして?
生じた疑問は断片となりまとまった考えは何一つもう頭には浮かんで来なかったけれど。
すぐ目の前まで来たシフがナイフを持っていない方の手でそっと自分を抱き寄せるのを見つめながら。
自分がそれに応えて泥だらけの腕を上げ彼の身体を優しく抱き返すのを意識しながら。
どうして?
どうして?
どうして…?
花嫁衣裳をまとった自分の姿を目にしたときのシフの狼狽ぶり。
抱き寄せてほんの一瞬頬に口づけてくれた彼のぬくもり。
初めて会った日の、傷ついてぼろぼろになった無残な彼の姿。
こども達の悪戯でおろしたての服を水浸しにされて苦笑いしていたシフ。
ローゼが風邪をひいたときにはつきっきりで看病してくれた。
たった一度だけケンカをして別れてしまったとき、後悔と自己嫌悪で眠れなくなっていたローゼのところへ、真夜中なのにやって来て、シフはちっとも悪くなかったのに、平謝りに謝って。
…ただ一人「さま」をつけないでローゼのことを呼んでくれた。
シフといるとそれだけで、しあわせに、なれた。
なのに。
なのに…。
どうして…?
どうして…!?
違う。
強烈な違和感が襲う。
違う、こんなのは違う。
私は。
だって。
一生懸命布を染めて、早咲きの暁待ちの花、いっぱい集めて。
明日だったのに。
みんなに祝福してもらって。
こども達も結婚式をあんなに楽しみにしてくれてて。
もう今日のことだったのに。
なのに。
どうして?
違うでしょ?
これは…違う!
───違う…!