(5)
ローゼの暮らす名もなき村、平和で小さなこの村でこんなことが起きたのは初めてだった。
明日の式はどんなものになるのだろうかと考えて眠れずにいたローゼの寝室に、村の男達がノックもせずに駆け込んで来たりしたのは。
驚くローゼを、ほとんど強引に抱え上げるようにして男達は家の外へと連れ出した。
事情を説明している暇はない、今はここから逃げ出すことが先決なのだと口を揃える彼らの言葉を、ローゼは最初全然理解出来なかったけれど、家から一歩外に出るなり彼らの言いたことがよくわかった。
平和な家並みが燃えている。
見慣れた風景が真っ赤な炎に崩されてゆく。
小さなこの村で火事なんて、些細な小火騒ぎでさえ一度だって起きなかったのに、赤い炎はすさまじい勢いで小さな家々を舐め、全てを呑み込み片端から灰に変えてしまおうとしている。
炎が爆ぜる音、何かが崩れ落ちる音、ガラスが叩き壊される音。
大勢の乱れた足音の向こう側から、悲鳴が、泣き声が、叫び声が、助けを求める声が聞こえて来る。
小さなこの村でローゼが一度も耳にしたことのない種類の声が村中に満ちている。
「降ろして!」
ローゼは叫んだ。
叫んで身をよじり、自分を村外れにまで運び出そうとする男の−ローゼのよく知った顔、雑貨屋の主人−腕から抜け出そうとした。
「降ろして下さい! 降ろしなさい!」
声を限りに叫んでみても、雑貨屋の主人の身体を力を込めて叩いてみても−誰かを強く叩くなんて本当はとても悪いことだったのだけれど−彼はローゼを離さず、ローゼを連れた数人の男達はどんどん炎から遠ざかってゆく。
彼らはローゼを助けようとしているのだ。
もちろん、それはわかっている。
こんな状況の中でも、自分のことを一番に考え助けに駆けつけてくれたことは、ローゼも深く感謝している。
けれど。
彼らはローゼだけを助けようとしている。
それだけは、それだけは絶対に認められない。
何が起きたのかはわからないけれど、村の人々が助けを求めているのに。
あんな声で叫んで泣いて、あんな炎が村を焼いて、きっとこども達はとても怯えている、怪我をした人だっているかもしれない、それなのに自分だけがここから逃げ出すことなんて。
あの炎の中に戻ってもローゼにはきっと何も出来ない、ローゼは語り手であって『神』ではないから、皆の役に立つようなことは何も出来ないかもしれないけれど、それでも。それでも───。
「降ろして! お願い! 逃げたくない! 降ろしてぇッ!!」
ローゼの涙まじりの絶叫も男達には届かない。
早口に状況を確認し合いながら、村人達はただローゼを、『神』と同じ名を持つ語り手の少女を逃がすことだけを考えて、自分達の家族や友人にも背を向けて、ためらいもなく逃げ続ける。
泣きながら雑貨屋の主人を殴りつけるローゼは気づいていなかったが、彼らも全員泣いていた。
あの炎と喧騒の中に、妻をこどもを、年老いた両親を、きょうだいを残して来たのだ。
いや、人口が百人にも満たない小さな小さなこの村では、住民の全てが家族のようなもの。
本当は今すぐ駆け戻り大事な人々を助けたい。逃げたくないと泣き叫ぶローゼの気持ちは痛いほどよくわかる。彼らもみんな同じ想いでいる。
けれど彼らはローゼを守らなくてはならない。
ローゼ・イクス・シード・フォア。
『神』と同じ名を持つただ一人の少女、全てを知り、全てを語り、全てを伝える特別な少女。
彼女だけは失われてはならない。
人の命に優先順位はつけられないけれど、それでもなお、彼女だけは失われてはならないのだ。
ローゼは伝える、遠く絶えてしまった知識を、夢と勇気に溢れた伝承を、ローゼは紡ぐ、ありとあらゆる喜びを、ありとあらゆる悲しみを。
ローゼが失われることは、ローゼが記憶する全てが失われてしまうということ。
数知れぬ人々の想いがそこで途切れてしまうということ。
それだけはあってはならない。
ローゼがいればそれらは続く、とこしえに続く、ローゼがその言葉で伝える限り。
いつかこの夜のこともローゼが誰かに伝えるのだとすれば…この夜に何が失われてしまっても、それらは続く、消えたりはしない、ローゼの中で永遠に、だから彼女は最後の希望。
「エルシラさんッ! ユーフィリアさんッ! ディート! カーゼル! ルーディア!」
ローゼは村の人間一人一人の名前を、声を枯らして呼び続ける。
自分が呼びかけることでその人物に降りかかる災いを全てはねのけようとするかのような強さで。
その名を呼び続ければ炎も何もその人物には触れることはおろか近寄ることさえ出来ないのだと言わんばかりの強さで。
そしていつしかローゼは自分でも気づかないうちに、ただ一人の名前だけを呼び続けている。
何度も何度もその名前だけを繰り返している。
「シフ! ジール・シフ…無事でいて、シフ! シフ!!」