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「サザナミは耳を澄ませた、瞳を閉じただ一途に耳を澄ませた、声がきこえる、遠く彼方、あるいは遥かな時の向こう側、聞き違えようもなく、声がきこえる」

 広場の片隅、村で一番背の高い木がつくる影の中、こども達に囲まれて一人の少女が朗々と語る。

「サザナミは確かにそれを聞いた、その声は遠くまだ小さいが、それでもこの上ないほど尊く気高く、輝くばかりの確かさを伴ってサザナミに届いた、呼んでいる、誇らしいその声はサザナミを呼んでいる、どこか遠い彼方、誰もそこにはゆけないような場所から、確かに彼を呼んでいる」

 それは失われた物語、今となっては彼女の他にはそれを語れる者がいなくなった、遠い遠い物語。

「サザナミの身体に力が戻った、杖を握る手に力が戻った、サザナミの弱く限りある心は勇気に満たされ、限りなく強いその声はサザナミの心を満たして、いまや絶望が支配する死の淵にあったヒトの勇者は千もの味方を得た心強さと共に。サザナミは立ち上がり立ち向かう、彼の弱さと命を欲した(よこしま)なる影、その名を声に乗せるもおぞましき影、正しき者の悲しみを食らい優しき者の苦しみを食らい、ただ肥え太る醜い影、サザナミの敵はそれ。勇者は最後の力を振り絞り、尊く気高く誇らしいその声が自分の名を称えるのを耳に心に受けながら、その杖を影に振り下ろす、その影を杖の力で払うために───」

 彼女を囲むこども達はものも言わずに彼女の声に耳を傾ける。
 取り巻く中には彼女の話の内容が理解出来るとは到底思えぬ幼い子らも見えるのに、誰一人騒ぐことも身じろぐこともせずに、純真な瞳をただ彼女に集めて、物語の中に心を奪われてしまったかのように、こども達はひたすらその話に聞き入っている。

「サザナミは愛する者のことを想った、これまで自分を慈しみ育んできた全ての者のことを想った、たとえいま自分のこの手がこの杖もろとも砕け影に呑まれようとも、その者達を守るためならば何を引き換えにしても惜しくはない。サザナミのその心、崇高なる志を彼を支える声はよろこんだ、弱く限りある心を持つ者とは思われぬ強き決意、何者にも折ることはかなわぬ不屈の闘志。彼こそまことの勇者である、彼こそヒトの身にありながら我らの仲間となるに相応しい者である。声はよろこんだ、ヒトの内から彼らの仲間が生まれたことを。声はよろこび、そして迎えた、恐ろしく深く(けが)れ切った影を打ち倒し、まことの勇者となったサザナミを、唯一なる『神』として彼らは迎えた」

 少女が不意に声を切り、顔を上げる。
 それまで静かに閉じていた紫がかった藍色の瞳を開き、穏やかなまなざしで問いかけるようにこども達を見渡す。
 こども達がそれぞれに慌てて背筋を伸ばし彼らなりの敬虔さで姿勢を正すのを見届けてから、少女は長い長い物語の最後の一節を、歌い上げるように口にする。

「サザナミは気高く尊い名前を授かった、唯一のその名、『神』の御名、『リュウド・サザナミ・シード・フォア』、今ある我らと我らの暮らしを護り給う、まことの『神』はこのようにして此処に生まれ、そして今もある、セーフェリーザが続く限りとこしえに、ただ一人の『神』は我らと共に歩む───」

 少女が小さく笑んで口を閉ざしその声の余韻がすっかり消えしまっても、こども達は全員がしばらくの間、背筋を伸ばしきちんと座ったその姿勢のまま、ぽかんと黙り込んでじっとしていた。
 そのまま、木陰をゆるやかに抜ける風が少女の黒く長い髪を、ふわりと揺らして吹き過ぎるまで。
 爽やかな風に頬を撫でられそこで初めて夢から醒めたように目をしばたたかせて、こども達は一斉に黒髪の語り手へと弾けるような拍手を贈る。どの子も皆、頬を高潮させて目を輝かせて、惜しみない喝采を静かに微笑する少女へと贈る。

 村で一番背の高い木の幹に軽く背中をもたせかけて腰を下ろしたまま、少女は笑顔でそれに応じる。
 淡い緑色と強い純白でデザインされたゆったりとしたワンピースに身を包んだ少女は、先刻の風がなびかせていった髪をそっと片手で押さえてふと目を細め、こども達の背中側、広場の反対側を透かし見るように眺めやる。

 少女の視線を追うようにこども達もつられてそちらを振り向いた。
 木陰から見る広場はやたらと眩しく妙に光に満たされているようで、そちらから歩み寄って来る背の高い青年の姿はほとんど真っ黒な影のようになっていて、すぐには目鼻立ちも判別出来ないような有り様だったけれど、少女にもこども達にもそれが誰かはすぐにわかった。

「まだお話の途中でしたか? もしかして邪魔をしてしまいましたか?」

 のんびりと尋ねて来る柔らかな声。
 薄い金色の髪を一つに結って背中に垂らした、琥珀色の瞳の青年。
 女の子の数人が彼に首を振ってから、黒髪の少女の手を取って引っ張るように立ち上がらせる。

「ううん、今ちょうど終わったところ!」
「大丈夫、返してあげるよ、シフにいちゃん!」
「ローゼさまはもうシフにいちゃんのものだもの!」

 悪戯っぽい調子で口々にそう言って、こども達はローゼと呼んだ少女をシフと呼んだ青年のもとへ押し出すように連れて行く。

「わたしのものだなんて…参ったな」

 ませたこどもの言うことと笑って受け流せずに赤くなってうつむいたシフを、ローゼが笑って見上げる。

「みんな祝福してくれているんですよ、シフ。最初の頃は大変だったじゃありませんか」
「そう言うことなら…、…確かに最初の頃は、大変でしたからね」

 ローゼの笑顔を見返して、シフも笑って肩をすくめる。

 シフがローゼに結婚を申し込んだことが村中に知れ渡ってすぐの頃は、シフはここにいるこども達全員から親の仇を見るような目を向けられそれ相応の扱いを受けていた。
 自分達の大好きなローゼを独り占めして遠いところへ連れて行ってしまう悪い奴だと村中のこども達から責められて、シフは対応に困り果て途方に暮れたものだった。
 ローゼがこども達の一人一人に、『結婚』というものがどういうものなのか、自分は決して遠いところへ行ってしまったりはしないし皆と会えなくなるわけでもないのだということをゆっくりと丁寧に説明してその誤解をきちんと解くまで、シフは毎日やきもち焼きのこども達の他愛のないイタズラで散々な目に遭わされていた。

「何か御用ですか? 私を呼びに来たのでは?」
「ああ…ええと、エルシラさんが、明日の衣装合わせをするから呼んで来るようにと…」
「ま…またですか?」
「…そのようです」
「私の記憶に間違いがなければ、衣装合わせはこれで十五回目になるような…」
「わたしが数えていた限りでもそうなるはずです」
「…花嫁衣裳とはそこまで神経質にサイズを合わせなければならないほど緻密なデザインで構成されているものなのでしょうか…」
 疲れた様子で揃ってちょっと肩を落とすローゼとシフを、不思議そうに見上げるこども達。
「とにかく…早く行かないと、またいつもの小言の嵐が」
「そうですね、わかりました。…みんな、次の話はまた今度」

 軽く手を振って別れを告げるローゼがシフに寄り添われて遠ざかってゆくのを、こども達は木陰から皆で見送った。
 二人の姿が広場を渡って家並みの中に消えてしまうまで、木陰を再び静かな風が吹き過ぎるまで。

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