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 腕に、胸に、一瞬触れた唇に、ローゼのぬくもりが残っている。
 かけがえのないもの、一番大切なもの。
 確かめるように心に刻み込むように、それらを思い返しながら。
 ローゼがまとった儚い空色を思い返しながら。
 シフは小高い丘の上に座り込んで、一人、村を見下ろす。

 村中の人間を集めても百人にも届かないような、小さな小さな村。
 ローゼが暮らす名もなき村。

 ローゼが暮らす村には決まった名前がなかったが、ローゼが暮らしているが故にその村は特別だった。
 世界中の人間はこの村のことを知っている。
 この村にローゼが暮らしていることを知っている。

 ローゼ。

 ローゼ・イクス・シード・フォア。

 この世界でただ一人、『神』と同じ名を持つ少女。

 世界を護り世界を育む唯一の『神』、『リュウド・サザナミ・シード・フォア』───『神』と同じ名を持つ、語り手の少女。

 ローゼは紡ぐ、世界の時を、そのままにしておいては容赦なく失われてしまう大事な記憶を、遥か昔から語り継がれてきた大切な知識を。
 ローゼは全てを知り、全てを覚え、全てを伝える特別な少女。
 『神』と同じ名を持つ生まれながらの語り手。
 ローゼはただ一人の特別な存在、世界にとってかけがえのない存在。

 ローゼは『神』ではない。
 ローゼに『権力』はない。
 世界を統べるのは別のもの。
 けれどローゼの暮らすこの村だけは、世界を支配するもの達の『権力』からは自由なまま。
 全ての記憶を、知識を、伝説を紡ぐこの村は、同じ世界の中にあってそこだけ特別。
 ローゼの暮らす名もなき村、ローゼの暮らす平和な村。

 五年前、シフはこの村へやって来た。
 身一つで荷物も持たず、しかも全身に傷を負った無残な姿で。

 ローゼの村の南東にある小さな村でシフは暮らしていたけれど、あるときシフの村は野盗の襲撃を受け、シフの他の住民は一人残らず殺された。シフの家族もみんな殺された。
 命からがら逃げ出してローゼの村にたどり着いたシフはそこで村人達に保護されて、昼も夜も献身的に看護してくれたローゼの優しさにひかれるようになる。

 ローゼは世界にとって特別なただ一人の少女だったけれど、この村の誰も−ローゼにとてもよくなついているやきもち焼きのこども達を除いては−シフがローゼに想いを寄せることを咎めはしなかった。
 もちろん、ローゼがシフのことを彼女にとって特別な一人だと思うようになるのを止めたりもしなかった。

 唯一の『神』と同じ名を持つ特別な少女が、普通に恋をするのを優しく見守るこの村の人々がシフは大好きだった。
 唯一の『神』と同じ名を持つ特別な語り手を、いつも取り囲んで昔語りをせがみ、ローゼに好意を寄せられる自分にかわいい悪戯をしかけてくるこの村のこども達がシフは大好きだった。
 唯一の『神』と同じ名を持つ特別な存在でありながら、何もかもを失った素性の知れない若者に過ぎなかった自分を誰よりも大事なひとだとはっきりと言ってくれるローゼを、シフは心から愛していた。

 丘の上で一人、シフは村を見下ろす。
 …もうじき日が沈む。
 夜が来て朝になればシフとローゼの結婚式が始まる。
 日が落ちて暗くなっても今夜ばかりは村人達は眠らないだろう。
 明日の支度がある。
 女達は山ほどのごちそうを、誰もがこれほどの料理を食べたことはないと感心せずにはいられないようなごちそうを明日のためにこしらえなければならない。
 男達は式場を、誰もがこれほど豪華な飾りつけがされた立派な式場は見たことがないと褒め称えずにはいられないような場所を明日のために完成させなければならない。
 村のあちこちに灯がともる。
 こども達だって、親にベッドへと急かされても明日への期待で到底寝つけはしないだろう。
 …ローゼだって。
 …自分だって。

 いつしかシフの周囲は闇に閉ざされている。
 窓からこぼれるあたたかな光が小さな小さな村の様子を明るく照らし出しているけれど、その光はシフのところにまでは届かない。
 冷たい闇の中、静かに暗い夜の中、シフは一人、ずっとずっと村を見下ろしている。

 空の頂に月がかかった。
 彼を照らすのは冷え切った月の光、青白い冴えた輝き。

 腕に胸に、残っていたはずのローゼのぬくもり。
 いつの間にすっかり消えてしまったのだろう?
 唇に触れた彼女の肌の柔らかさ。
 思い出せないほどに、もう、遠い。

 琥珀の瞳をすいと細め、シフは丘の上で立ち上がる。
 ローゼを想う。
 大事な大事な人。ただ一人、かけがえのない人。特別な人。
 自分にとっても───そして、世界に、とっても。

 シフの背後に影がある。
 夜の闇よりもなお濃い、複数の影。
 一つや二つではない。十や二十でもまだ足りない。

 影はものも言わず息さえ潜めて、その全てがシフの背中を見つめている。
 しんと冷え切った視線がシフの背中に突き刺さる。
 シフは振り返らない、影の存在になど気づいていないかのようにただずっと村を見下ろして、けれどシフは知っている、影は自分の言葉を待っている。

 村の誰も眠ってはいないに違いない。
 こんな夜を待っていた。
 こんな夜をずっとずっと待っていた。

 名もなき小さな村、ローゼの暮らす小さな村、この村の人々が、幸福な気分のまま夜通し起き続けるこんな夜を。
 この村の人達はほとんどが太陽と一緒に起き出して、夜の訪れと共にシーツにくるまる者ばかりだったから。
 シフはこんな夜をずうっと待っていた。

 だって。
 皆がぐっすり眠り込んだ真夜中、誰一人ワケがわからないまま、何もかもが終わってしまったのでは、つまらないだろう?
 皆が明日への期待に胸を膨らませて、皆が楽しい気分のまま朝が来るのを楽しみにしていて…そんな夜をこそ、シフはずっと待っていた、シフ『達』は待っていたのだ。

 それでこそ。
 教えられる。

 朝が来ない夜も有り得るのだということを。

 お前達を呼ぶあの声はもう二度とどこからも響かないのだということを。

 世界中に教えられる。
 これ以上は望めないほどにはっきりと、しっかりと、叩き込むように、教えられる。

 ───影の偉大さを。

 シフの背中を見つめるのは影。
 ヒトの弱さと命を欲した(よこしま)なる影。
 その名を声に乗せるのもおぞましき影。
 正しき者の悲しみを食らい優しき者の苦しみを食らい、ただ肥え太る醜い影───。

 琥珀の瞳が悲しみに歪み、月光に透けて青白い彼の頬を一筋の涙が伝う。
 けれどシフは小さな小さな村には何も言わず、胸の内で呟くことさえせずに、ただ静かに影達に向き直る。

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