(2)
「シフ! ジール・シフ!」
けたたましく自分を呼ぶ声と同時に勢い良く木のドアが開かれる。
開かれたドアの向こうから顔を突き出して元気良く手招きするのは、非常に失礼なことながらこの体格でどうやってこのドアをくぐったのだろうと心配してしまいたくなるほど恰幅の良い婦人、エルシラ。
呼ばれるままに椅子から立ち上がりつつも、さて一体自分に何の用があるのだろうと眉をひそめるシフを見て、エルシラは天井を仰ぎ遠慮のない大声で笑ってみせた。
「なァにをオドオドしてんだね! 晴れの舞台を明日に控えた花婿様がみっともない!」
「いえ、あの、別にオドオドとは…」
「アンタがそんなだから式の前に花嫁を見せておいてあげるって言うんだよ! さあ、こっちへおいで、ジール・シフ! もっとしゃっきりしなさいな、アンタ、ローゼさまのお心を射止めておいてそのザマは何だね!」
耳が痛くなるような大声でまくしたてつつずかずかと歩み寄って来たエルシラはシフの腕をむんずと掴み、半ば無理矢理に部屋の中へと引きずり込んだ。
「あのっ、式よりも前に花婿が花嫁の衣装を見るなどと…」
そんなのはこれまでに前例のないことだと拒否する暇もなく、シフはローゼに引き合わされた。
数人の侍女に囲まれて姿見の前に立つ、花嫁姿のローゼ。
夏が秋へと変わるときの高く澄んだ空の青を、さらに透明に薄めたような色の生地で仕立てられたドレスを身にまとった彼女が、ゆっくりと振り返る。
今は衣装を合わせているだけだから、まだ婚礼用の化粧は施していないし宝石も花束も彼女を飾ってはいないのに、その姿は伝説の中の女神もかくやと思われるほど輝くばかりに美しく。
そんなローゼに真正面から見つめられて、シフはいっぺんに耳まで真っ赤になって、その場に硬直し立ち尽くしてしまう。
「…シフ?」
ローゼが小さく首を傾げるようにして呼びかけてくるが、シフには何とも反応することが出来ない。
頭の芯まで一気に熱くなってしまって自分が自分でなくなったようで、本当に一瞬にして何もまとまったことが考えられなくなってしまって、それでいながらローゼに据えた視線だけはどうにも逸らせずにいる。
そんなシフの反応にエルシラばかりか侍女達までもが残酷なほどに無邪気な笑い声をあげる。
家の外までも響き渡りそうなほどの大笑い。
「そっ、そんっ、そんなに笑うことっ、ないじゃないですかッ!」
これにはたまらず必死に気力を振り絞って抗議してみたが、ろくに舌が回らなくなっているのがまたおかしいとさらに手ひどく笑い者にされる始末。
このまま消えてなくなりたいほど恥ずかしい思いをしながらも、それでもシフはローゼから視線を外せない。
琥珀の瞳をまっすぐに据え、美しいその姿を永遠に瞳に灼きつけようとしてでもいるかのように、シフはローゼを見つめ続ける。
遥かに霞む高い高い空の色の衣装をまとった花嫁。
シフの視線を穏やかに受け止めてローゼも笑う、ただしこちらは声をあげずに、控え目に。
「ほらご覧。先に見といて良かっただろう、ジール・シフ? アンタこれが本番だったらどうすんだい、アタシ達どころか村中のみんなに笑われてたトコロだよ! エルシラさんは気が利いてるだろう? この気遣いにはちょっと感謝してもらいたいものだね!」
陽気に笑いながらエルシラが言う。
侍女達が同意の声をあげ、戸口に突っ立ったまま相変わらず動けずにいるシフをローゼの前まで引きずって行く。
「まあね、シフさんがビックリするのも無理はないと思うわ。ローゼさま、とってもお綺麗なんですもの」
「アタシはこれまでいろんな結婚式を見てきたけれど、こんなに美しい花嫁はどこにもいなかったね、本当に」
「この生地を見て、この青、ローゼさまがご自分で染められたのよ? 暁待ちの花を摘んで。素晴らしい色合い、こんな色、どんな職人さんにだって作れないわ」
「ジール・シフ、アンタが明日着る衣装もこの同じ布で仕立ててあるからね。婚礼の衣装に使う布は花嫁が自分で染めるもの、それがアタシ達のしきたりだけれど、それにしたってローゼさまは大変な手間をかけられたんだ! シフ、アンタ、明日はごちそうがいっぱい出されるからって、衣装にソースの染みでもつけてごらん! 今さっきのアンタの素敵な反応を、村中にふれて回ってやるからね!」
「まあ、エルシラさんはそれでなくたって他のみんなに話すんじゃありませんか?」
「さっきのシフさんのあのカオ、話の種にしない手はないじゃないですか」
ローゼの目の前に立たされたシフはエルシラ達の会話を右から左へ聞き流し、そっとローゼに手を差し伸べる。
ローゼもそっと片手を上げて、シフのその手におずおずと指先を重ねる。
「…綺麗です、ローゼ」
囁くようにそう言うと、ローゼは短く左右に首を振ってシフと同じくらい真っ赤になってうつむいてしまう。
重ねたその手を強く握ると、シフはいきなりローゼの身体を引き寄せて両腕で思い切り抱きしめた。
唐突なその行動にエルシラ達から驚きの声があがっても構わずに、シフはローゼを抱きすくめ、花嫁の白い頬に一瞬唇を触れさせる。
「あのっ…シフ…!」
動転して身を離そうとするローゼの艶やかな黒髪をゆっくりと撫でて、シフは深く深く息をつく。
「…綺麗です…」
世界で一番大事なものに触れる手つきでシフはローゼの背中を撫でて、ため息と共にまた囁く。
…それからはっと我に返ったように、慌てて彼女を解放する。
「しっ、失礼しました…!」
「見直したよ、ジール・シフ! 男はそれぐらいじゃなくっちゃね! けれど今はちょっとガマンしておくれよ、せっかくの衣装がシワになっちゃうじゃないか!」
「あのっ…その、す、すいませんッ!」
「何も謝るコトはないんだけどねぇ〜」
「ええっと…ちょ、ちょっと頭を冷やしてきますッ!」
今度こそ本当に心底消えてなくなってしまいたいような衝動に駆られて、シフはエルシラ達の制止の声を振り切って、そのまま部屋を飛び出した。