第18章−3
(3)
「ガールディーはそれからすぐに森から出て行った。じきに暗くなるから俺の家に泊まって行けと言ったんだがな、今は一人になって考えたいことが多すぎるからと丁重に断られたよ」
雑な口調ではあったがひとつひとつの言葉をしっかりと積み上げて、ディルシア・フーシェは三年前の出来事をサイト・クレイバーに語った。
サイトは彼の話に真剣に聞き入りながらも視線だけを動かして周囲の様子をうかがってみたが、他の十人の高位エルフ達は既にこの話を聞かされているようだ。
終始落ち着いた表情で、時折小さくうなずいたりしつつも、全員がディルシアの長い話に静かに耳を傾けていた。
「俺が奴と会ったのは三年前のそのときだけだ。ガールディー・マクガイルはそれきりここには姿を見せなかったからな。…外の世界へ戻って行った奴が、それから何を考え何をしたのか…俺にはわからん」
ディルシアは少しの間だけ言葉を切った。
続く台詞を深いため息とともに吐き出す。
「しかし、現状から判断すると…シルフィアがしたことは、結局無駄だったように思えるが…」
「そのようなことはないと思います!」
意識せぬうちに強く声をあげていた。
ディルシアが片目を軽く見張ってこちらを見つめる。
ラーフォタリア・シェイドをはじめ他の高位エルフ達も注目する気配。
サイトは一気に言い切った。
「ガールディー・マクガイルは確かに現在不穏な行動をとっていますが、『破壊者』として覚醒してはいません。二日前、私達の前に現れたガールディーは、あと三ヶ月は『闇』に抵抗出来ると言いました。彼の心に残ったシルフィアさんの力が、ガールディーの意識を正常に保っているのだと…私は思います。シルフィアさんがされたことには、間違いなく意味があったのだと…」
口調と同じ鋭い視線を、無礼とは知りつつディルシアに据える。
シルフィア・フーシェの兄は数秒の沈黙の後、ふっと口許をほころばせた。
いかつい外見からは想像もつかない限りなく優しい光を湛えた空色の瞳で、サイトに応じる。
「感謝する、サイト皇子。そう言ってもらえると、兄としては非常に…嬉しいよ」
隻眼の大男が穏やかに微笑んだとき。
空気が張り詰めた。
音が消える。
温度が下がる。
何事が起きたのかと息を呑んだ一瞬───鼓膜を叩きつけるような強烈な破裂音が全員に襲いかかって来た。
衝撃と痛みを伴う激しい音。
サイトは反射的にテーブルに上体を伏せて両腕で頭を抱え込んでしまった。
耳を塞いでいるような余裕はない。
直後、初めて聞く男性の声が響く。
「『閉じろ』!!」
空間が揺らぐ。
再び質感を持った破裂音。
だがそれはさっきのものよりも幾分威力が落ちているようだ。
「『閉ざせ』!!」
その声の後を追うようにディルシアが叫んだ。
冷たい空気がふわりと消えて、同時に音がぴたりと止む。
じんじんと痺れる耳を押さえながら、サイトはゆっくりと身体を起こした。
呆然となりつつ見回す。
片手で額を押さえ険しい表情で天井を睨んでいるディルシア。
椅子から転げ落ちてしまったらしいラーフォタリアが両手でテーブルの端につかまり立ち上がろうとしている。
他の高位エルフ達も、それぞれのやり方でなんとか音の余韻を振り払おうとしていた。
ディルシアより先に声を発したのが誰だったのかは、わからない。
これは一体、と口を開きかける前に、天井から視線を剥がしたディルシアがサイトに声をかける。
「サイト皇子。何者かが俺達の結界を破ろうとしているようだ」
「結界を?」
「この里は心配ないが、森はマズイかも知れん。たったいま里の結界を強化したんだが、そうするとそれだけ森の守りが薄くなる」
椅子を鳴らして立ち上がっていた。
森にはマーナ・シェルファード、イブ・バーム、フォスタート・スラトの三人を残して来ている。
結界を破ろうとしているのが何者なのかはわからないが、このように強引な手段で侵入を試みる者が友好的であるとはとても思えない。
仲間のことが心配だ。
サイトの気持ちを素早く察して、当然のようにディルシアも席を立った。
ようやく自分の椅子に這い上がったラーフォタリアに声をかける。
「ここを頼むぞ。俺達は森を見に行く」
「お気をつけて。里の結界は私達にお任せを」
ついさっきまで床に倒れていたとは思えない気丈な返事。
頼もしそうにうなずいてから、ディルシアは次にラーフォタリアの向かいに座っている人物を見下ろした。
「お前も来てくれ」
「はいな」
明るく答えて全く緊迫したところが感じられない軽やかな動作で腰を上げたのは、細身の青年。
薄い琥珀色の髪を一つに束ねて背中に流し、髪と同じ色の瞳にはこんなときだというのに柔和で人懐こい光を宿していた。
ディルシアは青年の名がケーフグレスだということだけを告げて、サイトを廊下へと急がせた。
「しっかし、えらい衝撃やったなァ…向こうさんはこらぁ相当なモンやで」
戸外へと駆け出す寸前、ケーフグレスが独り言じみて呟いたその台詞が、妙にサイトを不安にさせた。
☆
いきなり後頭部を殴りつけられたのだと思った。
呼吸が詰まる。
自分でも気づかないうちに地面に倒れ込んでいる。
頬に土の冷たさと固さとを感じて、数秒遠のいていたらしい意識を取り戻した。
顔を上げようとしたところに再度の衝撃が来る。
もう一度。
自分に何が起きているのか把握出来ずに混乱に陥りかける。
動転する心を捻じ伏せて状況を確かめるべくやっとの思いで周囲を見渡せたときには、原因不明の現象はおさまっていた。
マーナ・シェルファードがサーベルタイガーのガブリエルの身体にしがみついて顔を埋めていた。
近くの木の枝から落ちて来たダイブイーグルのスバルが大きな翼を広げてもがいている横で、イブ・バームが地面にうずくまり頭を抱えていた。
「大丈夫ですか…ッ!?」
フォスタート・スラトは二人に駆け寄る。
辛そうではあったが二人はすぐにうなずきを返した。
とりあえず安堵したフォスタートに、ノールドールが切迫した声を投げて来る。
「ここは危険だ。里に入る」
髭の大男は、両手で耳を塞いだまま動けなくなっていたエスレーフィアを横抱きに抱え上げると、他のエルフ達をも視線で促す。
「いっ…一体、何、何なの…?」
「何者かがここに侵入しようとしています」
狼狽しまくっているイブに、ミリルを助け起こしながらエイルが説明した。
「侵入って…私達、普通に入れましたけど」
「森には、ね」
夫の腕の中、耳を押さえた両手を下ろしたエスレーフィアが会話に混ざる。
「アタシ達が使う道にアタシ達以外が、開かれた出入り口の他のところから直接入ろうとするとああなるのよ」
フォスタート達にはよくわからない解説だったが、深く掘り下げて訊いている余裕はなさそうだ。
引きつったような三つ子の悲鳴が聞こえた。
全員が注目したその先に───赤い法衣に身を包んだ、魔道士らしき白髪の男が忽然と姿を現していた。
フォスタートにはその魔道士が何者なのかはわからなかったが、彼の存在を認識した途端ひどく嫌な感じを受けた。
落ち着かない、近くにいたくない、何故だかはわからないが…ひどく、怖い。
マーナやイブ、エルフ達も同じであるらしい。
三つ子は白髪の魔道士と距離を置こうとじりじりと後退っている。
「自分で立てるわ、ありがと」
エスレーフィアがノールドールに短く囁くのが聞こえた。
妻をそっと地面に降ろしたノールドールは、エイルと共にフォスタート達を庇って赤い法衣の人物の前に立ちはだかる。
「何者だ。我らの森にこのような手段で侵入するなど───」
敵意もあらわにエイルが問い詰めにかかるが、その台詞は半ばで途切れた。
白髪の魔道士が冷えた眼差しを当てた瞬間、エルフの青年の身体は見えない刃に斬り伏せられ鮮血をまき散らしながら大地に叩きつけられていた。
「お兄ちゃんッ!!」
ミリルが絶叫する。
唐突過ぎる事態に誰もきちんと対応出来ない。
呆然としてしまう寸前に気を取り直すことに成功したノールドールが行動を起こそうとしたが、彼の巨体もまた不可視の刃の餌食となって派手に吹っ飛んだ。
目の前で愛する夫がそのような目に遭っても、エスレーフィアはミリルのように取り乱したりはしなかった。
少なくとも表面上は。
代わりに左手を突き出し怒鳴りつける。
「『封じよ』!」
フォスタート達が使うものとは明らかに異なっているが、魔法のようだ。
短く切り詰められとてもわかりやすいかたちにされた呪文から察するに、エスレーフィアは相手の魔法を封じ込めようとしたのだろう、が。
魔道士は冷静極まりない態度を崩さぬまま、エスレーフィアに瞳を向けた。
甲高く耳につく叫び声。
濃い紫の髪を振り乱し彼女の華奢な身体がたちどころに血に染まって転がる。
あっと言う間に三人のエルフが動けなくなってしまった。
それも、相手は目線を動かしただけ。
瞳の他に指一本も動かしていなければ、呪文を唱えた様子もない。それなのに。
白髪赤衣の魔道士が使った力は魔法ではないのか…それともエスレーフィアの魔法が通用しなかったのか。
…そんなことを悩んでいる余裕はない。
その瞳で見ただけで相手を斬り裂けるような術者に勝てるとはあまり思えなかったが、フォスタートは何故だか恐怖を感じなかった。
精神を集中する。
自分が発動させられる極限まで頭の中で呪文を削る。
魔道士がこちらに目線を転じる気配。
ほんのわずかでも早く攻撃出来れば。
短い呪文を声にして、火球を放つ。
凄まじい勢いで飛び出したそれは、一直線の軌道を描いて正確に相手に向かって行ったが…命中する直前、嘘のように消滅してしまった。
最初から何もなかったかのように、あっけなく、きれいさっぱり。
圧倒的過ぎる力の差。
そうなることは予測出来ていたような気もしたが、やはり目の前で実際にそんなことが起こると───思考が、動きが止まってしまう。
致命的だと知っていても、棒立ちになってしまう。
冷たい、どこまでも冷たい瞳がフォスタートを捕らえた。
氷のように冷え切って、氷のように透き通って…そのくせ燃えているような色だ、と思った。
水底深く静かに燃え盛る、蒼い炎。
熱が走った。
悲鳴ではなく空気が口から押し出される。
弾き飛ばされた。
痛みを感じる前に意識が消えるらしいとわかって安堵する一瞬。
フォスタートは自分の片腕が胴体から離れて転がってゆくのを見た。
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