第18章−4
       
(4)

 魂を振り絞るような恐怖の叫びが長く響く。
 自分の声ではない、別の誰かが悲鳴をあげている、のだと思う。

 フォスタートが片腕を斬り飛ばされて地面に転がった。
 木の根元に激突してそのまま動かなくなる。

 エイルもノールドールもエスレーフィアも動きを止めている。
 急速に広がってゆく自らの血の海に突っ伏して、もうわずかな呻き声さえあげない。

 両足から力が抜けてゆきそうになった。

 怖い、殺される。
 そう思うよりも先に絶望していた。
 もう駄目だ、もう駄目だ。
 頭の中でその言葉だけがしつこくしつこく反復される。
 繰り返されるそのフレーズが全ての行動を不可能にさせる。

 イブ・バームはそのままへたり込んでしまいそうになる自分を必死に奮い立たせようとする。
 しかし心を覆いつつある感情には抗い難く、思考を麻痺させたまま一切の反応を放棄してしまおうとしていた。

 突如現れた白髪赤衣の魔道士、視線を動かすだけで人間を切り裂き吹き飛ばす圧倒的なその力。
 イブにはフォスタートのように立ち向かう気力はなかった。
 ただ自分を取り巻くこの現実から、心だけで逃げ出そうと…。

 聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。
 よく知っている声。
 違う。
 これは歌声だ。

 息を呑んで振り返る。
 マーナ・シェルファードが歌っている。

 瞳を閉じて、胸の前で両手を組んで、どこまでも澄んだ素晴らしい歌声。
 歌詞は───聞き取れない、多分遠い昔の言葉だ。
 切迫した状況に合わせたワケでもないのだろうがとても速い曲調。
 心地良く跳ねて聴く者に勇気と希望を与える。

 だけど…いくら歌で私達を元気づけても…白髪の魔道士が歌声に気づき、マーナに向き直ろう、と。

 刹那。

 歌が消えた。
 マーナは右手の人差し指を、恐れる素振りもなく真っすぐに伸ばして白髪の魔道士に突きつける。
 力強い声が静まり返った大気を打つ。

「イージス・メルディ・グライド!」

 光が収束した。
 マーナの指先に。
 瞬間周囲が薄暗くなってしまうほどの勢いで。

 集まった光が───放たれる。
 矢のように。
 魔法、だ。

 魔道士の蒼い瞳が驚きに見開かれた。
 光の塊はひどくあやふやな形をしていて内に秘めた力がまとまっていないと一目でわかるような不恰好な代物だったけれど、それはまっすぐに相手の身体を撃ち抜いた。

「何ッ………!!」

 魔道士が初めて声を発する。
 マーナの光は身体の中心から弾かれて赤い衣の左肩を抉り、魔道士はその部分を右手で押さえて苦しげによろめいた。

 敵に一矢報いたことに気を良くする暇もなく、マーナは即座に新しい歌にとりかかっている。
 先程のものとは違う歌。
 柔らかい旋律がその場に満ちる。

 マーナがイブに視線を投げた。
 歌っているマーナにはイブに言葉で自分の意思を伝えることは出来ない。
 けれどイブは友人の黒い瞳から彼女が言いたいおおよそのところを知ることが出来た。

 ───もう絶望も恐怖もない。
 世界一の吟遊詩人(バード)の歌声が全て拭い去ってくれた。

「ヴァユ・ラ・………」

 白髪の魔道士が体勢を立て直す。
 マーナかイブか。
 蒼い瞳が迷って揺れた、その隙を逃さない。

「ヴァレイド!!」
「『斬り裂け』!!」

 イブが全精神力を込めて完成させた呪文に、誰かの声が重なった。
 重なる声は───四つ。
 ミリルと三つ子の叫び声。
 マーナの歌は彼女達の心にも染み渡り希望をもたらしたのだ。

 烈風が巻き起こる。
 渦に閉じ込められた魔道士の赤衣が風の刃に切り刻まれる。
 凶暴な風はひとしきり荒れ狂い、やがてずたずたに傷つけられた白髪の青年を無造作に吐き出しておさまった。

「やった!!」

 三つ子の無邪気な歓声。
 つられて笑顔になりかけたイブが見つめる前で───ボロボロになった赤い衣を身にまとった魔道士が、すうッと、消える。

「え」

「お見事でしたよ」

 感情のない台詞。
 皆の視線が集まったのは、イブの背後。
 そう言えばさっきの声は耳元で聞こえた。
 ただ一人イブだけがそちらに顔を向けられない。

「しかし、そこまでです」

 それは何かひどく決定的な宣告のように聞こえたが───イブにはもう、恐怖はなかった。
 自分でも不思議だったけれど。

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