第18章−2
       
(2)

 一人でこの里まで来た人間族がいる。

 駆け込んで来た若者が告げた有り得ない出来事に、膝に抱いたサフィアに手作りの絵本を読んでやっていたディルシアは娘を妻に任せ急いで来訪者のもとへ駆けつけた。

 里を囲む森には高位エルフが中心となって、空間を歪める魔法を幾重にも施してある。
 捻じ曲げられた里への道筋は偶然などでは絶対に抜けられない、複雑極まりないもの。

 エルフであれば絡み合い混じり合った空間の中に走る正しい通路を用いて森の中を自由に移動することが出来るが、他種族の者がエルフの案内もなく森を越えるなど…ましてこの里までやって来るなど、不可能だ。

 何かの間違いではないか、もしかしたら皆で自分をかつごうとしているのではないかと思いもしたのだが、確かに人間族の青年はそこにいた。

 森に近いところ、里のはずれ。
 集まったエルフ達が異種族の若者を少し距離を置いて取り巻いている。
 中には彼に近づき声をかけている者もいるが、相手は一言も答えを返していない様子。

 若者は怯えている風には見えず、敵対心を抱いているようでもなく、ただ静かな表情でエルフ達をぼんやりと見返して立ち尽くしている。

 彼は質素な法衣を身にまとっていた。
 魔道士だろうか。
 痩せ型ではあるが貧相な体格ではない。

 困惑して青年から視線を外した同族の一人がやって来たディルシアに気づき、人垣が崩れて青年の前へと歩み出るための道が用意された。

「どうした、若いの。道に迷ったかい」

 気さくに話しかけつつ近づいて行く。
 青年がディルシアに向き直る。

 そのとき初めてそれに気がついた。
 ずっと彼の姿は目にしていたのに、そのとき初めて。

 黒い髪と、黒い瞳。

 ディルシアは足を止めた。
 立ち止まり青年を凝視してしまうディルシアに向かい、人間族の若者が声をかけて来た。

「アンタと話がしたい。面倒を起こすつもりはない。少し時間をくれ」


 同族の何人かは正体の知れない他種族の若者と彼が二人きりになることを不安に思い引き止めようとしていたが、ディルシアは人間族の青年の言葉を聞き入れることにした。
 自宅へ招こうとしたが外で話す方が気が楽だとの答え。
 ディルシアはその場に集まった皆に里へ戻るよう告げる。

 数分後、周囲に誰の気配も残っていないと確認してから、ディルシアは黒髪の青年に改めて視線を据えた。

「ガールディー・マクガイルか」

 その名を呼ぶと、若者は少しだけ眉を上げて、飄然とディルシアを見返す。

「知っていたのか」

 少しも物怖じしない声が答えた。

「シルフィアから、聞いたことがある」
「ディルシア・フーシェッてのはアンタのコトなんだろう」
「…俺の名を?」
「善竜人間族に友人がいる。高位エルフの名前ぐらい調べられる」
「それもそうだな」
「アンタは、シルフィアの…?」
「兄だ」
「ディルシア・フーシェ」
「覚えたか」
「妹とよく似た響きの名前だ」

「…何をしに来た、ガールディー?」

 問うと、ガールディーは長い間黙り込んだ。
 ディルシアに横顔を見せて、エルフの里を眺めている。
 まわりに花と緑があふれる背の低い家並み。
 空の高いところを鳥が飛び去る羽音。
 少し冷えた風が二人の間を吹き抜けて行く。
 昼下がりの優しい陽光があたりに満ちて、実に穏やかな風景。

 ガールディーは唐突にディルシアへと顔を戻し、

「ここがシルフィアのふるさとか」

 はっと胸をつかれるぐらいに優しい声でそう言った。

「里の中へ」
「いや、いいんだ。ここでいい」

 ディルシアの申し出を言下に鋭く拒絶して、

「心遣いは感謝する」

 丁寧に頭を下げる。

「この森を、抜けて来たのか」

 ディルシアは話を変えた。

「長いことかかった」
「人間族の魔道士にそんなことが出来るとは…」
「二百年もかかった」

 強い言葉に遮られ、ディルシアは口を閉ざす。

 目の前に立つガールディーは平静な態度を保っているように見えたが───きつくきつく握り締められた右手の拳に気づき、ディルシアは彼が何か途方もなく激しい感情を抑えつけていることを知る。

「ここまでただ来るだけのことに、二百年だ。二百年。それだけ時間が経てば人間族は普通死んでる」

 魔法を用いて自らの肉体に流れる時間を操作しているのだろう。
 わずか百年しか生きられぬ人間族が自分達の短い命を悲しみ研究を重ねて編み出した魔法だと聞く。

「アンタ達の目くらましに引っかからずに森を抜けるだけのことに。そりゃあ、二百年ずっとそればっかりやってたワケじゃないが。世界最高とうたわれたところで俺はその程度なんだ」

 早口に吐き捨てて。
 ガールディーはその場にしゃがみ込んだ。
 ひどく疲れたように、ひどく気落ちしたように。
 深い深いため息。
 それでもうつむくことだけはせず。

「俺がここに来たのは」

 強く握り締めたままの右の拳を膝の上に置いた。

「アンタに訊きたいコトがあるからだ」
「何を知りたい」
「アンタの口から聞きたい」
「何だ」

「『光の具現者』」

 ガールディーは鋭く強く光を帯びた黒い瞳でディルシアを射抜く。

「望めば避けられた運命だったのか」

 言葉の端に叩きつけるような、殴りかかって来るような壮烈な感情が覗く。

 シルフィア。
 二百年も前に生命を断たれた妹。
 昨日のことのように思い出せる。
 シルフィアが運命を受け容れることを選んだときのこと。

「その通りだ」

 ごまかしも逃げもしない。

 『光』は何も強制しない。

「シルフィアはそれを知っていたのか」
「無論だ」

 シルフィア。
 ガールディーはここまで来てくれたぞ。

 ディルシアはうなずく。

「シルフィアが拒めば、別の者が選びなおされるだけのこと」

「エルフには『光』の意図を拒むことなんか考えつきもしないんだろうが」

 ガールディーはお前を想ってここまで来た。

「確かにな。俺達は『光』の種族。『光の具現者』となることはとても誇らしいことだ。与えられたその権利を捨てるような奴はまずいない。俺だって選ばれたいぐらいだ」

 だから、シルフィア。
 話してやっても構わないか?

「じゃあどうしてアイツは俺に会いに来たんだ」

 シルフィア。
 お前が何をしたか、何を望んだか。

「俺と一緒に生きるつもりがなかったんなら」

 ディルシアが見守る前、ガールディーの頬を唐突に、涙が伝う。

「どうして俺を放って置いてくれなかった。何故アイツは姿を見せた。…なんでそんなひどいコトをしたッ!!」

 いきなり叫んだガールディーの顎の先から雫が落ちる。
 左腕を持ち上げて法衣の袖で乱暴に拭ったが、彼の涙は止まらない。
 それどころか拭けば拭くほど後から後からあふれ出して、どんどん収拾のつかない状態になってしまう。
 焦ったように顔を拭う左腕とは対照的に膝に乗せられたまま動かない右の拳。
 バランスを崩してしゃがんでいられなくなって、ガールディーは泣きながら草の上にへたり込んだ。

 呆然と泣き続けるガールディー・マクガイルを、ディルシアは無言で見下ろした。

 彼の言いたいことはよくわかる。
 確かに、シルフィアがしたことはとても残酷だ。

 好きだと告白しておいて相手の答えも聞かずに先に死んでしまう。
 それが避けられない運命や予期せぬ事故であったならばまだしも。
 生き続ける道を選ぶことが出来たのにそうせずに。

 一緒に生きるつもりもないのに想いを伝えた。
 一方的に投げつけられた告白がどれだけ相手を悩ませ苦しませるか、わからなかったワケはないだろうに。

 さらに悪いことにはシルフィアはその運命を選んだのが自分であると、とうとうガールディーに教えなかった。
 騙したも同然だ。
 それは卑劣な嘘だ。
 どんな理由があろうと許すことの出来ない、あまりに誠実さに欠ける振る舞いだ。

 ガールディーはディルシアに向かって何事か言おうとするが、言いたいことや言うべきことが多過ぎて、頭の中で処理し切れなくなって、声に出せない様子。
 ぼろぼろ涙をこぼしながら荒い呼吸を懸命に整えて、真っ赤な顔で自分を睨みつけているさまは大人の男性のものとは思えないほどにみっともなかったが…。

「謝罪はしない」

 相手の興奮を鎮めてやるためにわざと冷ややかに応じる。
 かえって激昂させはしないかと一瞬考えたが、ガールディーは大人しく彼の台詞の続きを待っている。

「お前もそれを求めて来たのではないだろう」

 黒髪の青年はわずかにうなずいた。

「シルフィアは。アイツは、知ってしまったんだ」

 何を。
 ガールディーの真剣な瞳が続きを促す。

「お前が」

 言葉がどうしても途切れてしまう。
 一度に全てを言ってしまわないのは相手にとっては苛立たしくいかにももったいぶっているように感じられるだろうとわかってはいても、どうしたって口が重くなる。

 このまま沈黙してしまいたい衝動に駆られた。
 言いかけたものをなかったことにして、ガールディーをこのまま追い返してしまおうか。
 それはとても簡単で、とても安易な方法に思われた。

 けれど。

 ディルシアはそうしない。
 シルフィアを誤解されたままにしておきたくはないから。
 シルフィアが心の底からガールディーを愛していて…彼の幸福を、それだけを願っていたのだと、伝えなければならない。

 シルフィア。
 ガールディーはここまで来てくれた。
 お前を想って。

 だからもう、話してやっても、いいだろう?

「お前が『闇』に選ばれて『破壊者』となることを」

「───……何?」

 ガールディーの唇から強張った声が微かに漏れる。

 ディルシアも草の上に腰を下ろし、ガールディーと目線を合わせた。
 『破壊者』───『闇』に選ばれありとあらゆる全てを破壊し尽くす者。
 『光の具現者』の対極に立つ忌むべき存在。

「『光の具現者』としての力を得ると、色々なことがわかるようになる、らしい」

 シルフィア・フーシェの真白い髪にある日突然一筋の黒が混じった。
 それがはじまり。

「『光』のこと、『闇』のこと、この世界のこと。シルフィアはほとんど話さなかったし、広めて回るようなことでもないが───」

 秘密のままにしておかなければならない秘密もある。
 選ばれた者が力と共に何もかもを明らかにする知識を得るのは、この世界のために生命を投げ出すことに対して与えられる申し訳程度の報酬。
 力を拒めば一度授かった知識も失われると言われている。
 前例のないことなので事実かどうかはわからない。

「ただ一つだけ、俺だけに教えてくれた。シルフィアの好きになった男が、人間族のガールディー・マクガイルが、『闇』に選ばれる」

「俺が」

「シルフィアは役目を放棄しようとしてたんだ、最初」

「俺が…」

「何も言わなかったが、だから余計よくわかった。『光の具現者』をおりてこの里から出てでも、お前のそばに行きたかったんだろうな。一人で長いこと、じッと考え込んでいた、あの頃のシルフィアは。もちろん本当のところ何を考えていたのかはもうわからないが…それでもシルフィアは明らかに、『光の具現者』となることを受け容れようとしてはいなかった。『光』の種族であるエルフとしてはあるまじきことにな」

 ガールディーはうつろな表情で自分の手元に視線を落としている。

「お前が『破壊者』になることを知って、心を決めた。心を決めて、お前に自分の想いを伝えに行った」

「何故」

 跳ね返すような勢いでガールディーが顔を上げる。

「なんでだ。さっぱりわからない。シルフィアが『光』に選ばれて俺が『闇』に魅入られるとして───わからない。お前の話はおかしいぞ。『光』と『闇』は敵対するものだ、役目をおりなければシルフィアは俺の敵になる。だが俺は『闇』からの接触を受けたことなど今まで一度も───シルフィアが? アイツが『闇』の力を抑えたおかげで俺は助かったのか? アイツが『光の具現者』であることをやめられなかったのは…アイツが死んだのは俺のせいなのか?」

「落ち着け、ガールディー」

「俺を助けるために死ななければならなかったから、だから俺のせいで生命を落とす自分を忘れさせないために、シルフィアは…」

「ヒトの話はしまいまで聞け。俺の言い方も悪かっただろうがお前は大きな勘違いをしている」

「俺のせい、で…」

「ガールディー・マクガイル。お前は助かってなんかいないんだ」

 ディルシアはガールディーをまっすぐに見据え、決して逃がさぬ真剣さで彼の瞳を捕らえ、淀みのない口調で言い切った。

「お前は『闇』に選ばれ『破壊者』になるんだ。これから。近いうちに」

 黒い瞳が激しく揺れた。
 明確な動揺と混乱の色が走る。

「シルフィアは『光の具現者』の能力で二百年先のことを知ったんだ」

「どうして…それがどういう…」

 ガールディーの身体が震える。
 意味を成さない言葉がわななく唇からこぼれる。

 ガールディーにはまだわからないようだ。
 自分にだってわからなかった。

 妹が何故あんなことをしたのか、あんな決断を下したのか。
 シルフィアが何故ガールディーのもとへ行かなかったのか、彼と生きることを選ばなかったのか。

 彼女はそう出来たはずなのに。
 彼女はそうしたかったはずなのに。

 長い間わからなかった。
 だが、二百年の時を経てガールディー・マクガイルがこうして目の前に現れた今、全てがわかった。
 種族の寿命を遥かに超える長い間シルフィア・フーシェを忘れなかったガールディーを見たときに。
 たった二度顔を合わせただけの相手を想って、初対面の男の前で情けなく泣き崩れた彼の姿を見たときに。

「シルフィアはお前を守ると決めた」

「まもる…?」

「最も確実で、同時に極端に成功率が低い方法で。別れのときが迫っていると知りながらお前に自分の存在を知らせた。一緒に生きられないとわかっていながらお前を好きだと言った。最後の最後にお前を呼び寄せて、世界を救うために死んでゆく自分の姿を印象づけた」

 一気に言う。
 もう迷いはない。

「まさか」

 黒髪の青年の顔が───歪む。

「お前の心に残るためだ」

 シルフィア。
 お前は。

「いずれ『破壊者』となるお前を支えるために。『闇』に取り込まれぬよう守るために。ガールディー・マクガイル、お前の運命を変えるために」

 ガールディーが大きく息をついた。
 左手で自分の胸を掴むように押さえる。
 そのまま動きを止める。

 黒い瞳はディルシアをもう見ていない。
 何も見ていない目をしている。

 黙って見守った。
 自分の言葉が、シルフィアの本当の気持ちが、彼の中に落ちてゆくのを待った。
 落ちて、心の底に確かに根づくのを待った。

 空の高みを、風が渡る。

「───ふざけんじゃねえッ!!」

 唐突に絶叫が弾けた。
 ディルシアは驚きもせず静かに見返す。

「ふざけんな…冗談じゃない!! いつ俺が守ってくれって言った。何だその理由は。初対面も同然の女に命を投げ打って助けられて、俺が感謝するとでも思うのかよ。迷惑だ。ものすごく迷惑なんだよ。そんな───そんな理由で、俺の、心に───」

 激しく首を振る。
 長い黒髪が乱れる。

「自分勝手にも程がある。勝手にヒトの未来を見て、勝手に俺を助けると決めて、二百年もヒトの心に居座って───そりゃてめえは満足だろうよ。計画通りにことが運んでさぞかし満足だろうよ。俺を何だと思ってやがるんだ! くそッ! 畜生ッ!!」

 怒鳴り散らしながら草の上に倒れ込む。
 仰向けに引っくり返ったガールディーは空に向かって思いつく限りの悪態と呪いの文句を延々と喚き続けた。

 それはこんな場面なのにディルシアが思わず感心してしまったほどのバリエーションに富んでいて一人の人間が特定の個人を一方的に非難するものとしては考えられないぐらいの長時間続き、彼がようやく完全に疲れ切ったように口を閉ざした頃にはそろそろ太陽が傾き始めていた。

 ディルシアはその長い間一言も口を挟まず、遮ることもせずにただガールディーを見つめ続けていた。
 ガールディーが口を閉じると、その場に久しぶりの静けさが戻って来る。

 ぐったりと草の上に倒れたままの彼がぽつりと言った。

「どうして俺と一緒に生きてくれなかったんだ」

 ディルシアは答えない。
 ガールディーはシルフィアに問うている。
 自分の中にいる、自分の心の中にいるシルフィア・フーシェに。

 ガールディーを『闇』から守る手段として、シルフィアが彼と共に生きるというのは『弱かった』。

 シルフィアは彼の中で『永遠』と等しい存在にならなければならなかった。
 共に過ごせば絆は深まるが行き違いや衝突も当然生じる。
 それらを乗り越えて築く関係こそが真に大切なものだとしても、ガールディーとシルフィアの関係は『無傷』でなければならなかった。

 忘れられない唯一の存在としてガールディーの心の中に住みつくには、彼自身がシルフィア・フーシェを理想化することが必要だった。
 彼がシルフィアのことを知らなければ知らないほど、彼女は彼の幻想の中で唯一にして絶対のガールディーの理想の女性となることが出来る。

「どうして役目を降りなかったんだ」

 シルフィア・フーシェは死ななければならなかった。
 ガールディー・マクガイルの前から姿を消すために。
 彼の心の中だけに存在するために。

 それも普通の死に方ではなく、『光の具現者』としてその命を世界に捧げなければならなかった。

 ガールディーに『闇』が接触しようとしたとき、『破壊者』の役目を彼に負わせようとしたとき。
 シルフィアがこの世界を守るために死んでいったことが高く強固な壁となる。

「どうして口をきいたこともない俺をそんなに好きになってくれたんだよ」

 それだけはディルシアもわからなかった。
 シルフィアが度々里を抜け出し森からも出て何をしていたのか。
 どこでガールディー・マクガイルのことを知ったのか。
 あれから長い年月が流れ現在となっては突き止める術もない。

「俺はお前ともっと話をしてみたかった、シルフィア」

 ガールディーが大きく深く、息をつく。

「どうしてだよ…」

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