第9章−2
(2)
「ディアーナ…何してるの?」
少女の姿を一目見るなりノルラッティは呆れたように呟いた。
中庭でマーナに話していた僧侶の友人の一人ディアーナ・ハートレー…彼女は確か、給仕の仕事まではやっていなかったハズ…。
「ううん、別に深いイミはないの。ただちょっと僧侶ってモノにマンネリを感じちゃって、シャレーヌに無理言って代わってもらっちゃった」
ディアーナはてきぱきと慣れた手つきで各人の前に紅茶の−ゴールドウィンの前にはもちろんホットミルクの−カップを並べていった。
ほんの気まぐれで交代してもらったとは思えない、迷いのない動作。
…きっと前にも何度か同じようなことをしているのだろう。
「代わってもらっちゃったって、あなたまさか僧侶の仕事をシャレーヌに押しつけて…」
「まさかぁ。いくら私でもそんなコトしないわよ。代わってもらったのは礼拝堂の掃除だけ」
「…私、あなたが当番の日にセレイスさんが掃除してるの見かけたことあるんだけど…」
「あれは特別。いっつもあんなコトやってるんじゃないからね。あのときは、ジャンケンで負けた方がやることにしようって言ってみたらカレが乗ってくれたから」
…あの二人は当番なんてモンじゃなくてホントにバルデシオン城の雑用係なんじゃなかろうか。
暖かい湯気の立ちのぼるティーカップの中の紅茶色に澄んだ液体を見つめながら、チャーリーはふとターフィーとセレイスを気の毒に思った。
それにしても、ディアーナはノルラッティのもう一人の友人、メルとは正反対の性格のようだ。
どちらかと言うまでもなくマーナ寄りの楽天主義者に違いない。
ノルラッティのまわりにはこういう軽いノリの人物が集まってくる傾向でもあるのだろうか。
「それじゃあ、お菓子を配りまーす。え〜と、一応品名を言うように言われてるんで…はい、これがビーネンシュティッヒ、バターで焼いたはちみつ風味のお菓子だそうです。ビスケットみたいですね。それからプリンツレーゲンテントルテ…チョコレートケーキじゃあないのかなぁ、似てるけど。で、これがベルリーナファンクーヘン。中にジャムが入ってます。最後に、ブレッタータイクゲベック。え〜と…なんか、パイみたいですね、つまりは」
ディアーナの手によってテーブルの上に並べられた菓子類はどれも焼きたて出来たてで香ばしくかつ美味しそうな匂いを食堂中に溢れさせている。
名前や材料なんかはこの際どうでもよくなってしまうくらいに素晴らしいものばかりだったのだが…やはりさっきの説明では少し不親切なような気がしないでもない。
しかしそんなことにこだわっていても仕方がない。
「ご苦労、ディアーナ。僧侶の仕事の方もそのくらい真面目にやるようにな」
サースルーンが寛大な笑みを見せて言葉をかけると、ディアーナは決まり悪そうにちょっと頬に手をやってから、
「私はいつだってちゃんとやってますよ。それじゃあ、失礼しますね」
弾むような足どりでまたワゴンを押しながら出て行った。
サースルーンがいようがサイトがいようが、ましてやゴールドウィンまでいるのにまったく緊張しない、考えようによってはスゴイ度胸の持ち主である。
「いつ来てもいいですな、バルデシオン城は自由で」
「いやぁ、何をやり出すのか予測がつかないのがかえって楽しみなくらいでして。それでも城内は正常に機能するんですから、大したもんです」
ゴールドウィンとサースルーンが楽しげに会話している間に、チャーリーはそれぞれに手を伸ばして好みの菓子を取り、ぼそぼそと雑談しつつ口に運び始めた。
「このお菓子、何て名前だっけ?」
「さあ…なんせやたらと長い名前でござったからなぁ」
「よせよ、あんな長ったらしい名前、気にするとまずくなるぜ」
「あれ、メールさんは食べないの?」
「ええ。ちょっと食事制限されてるもんで、紅茶だけで結構です」
「どっか体悪いんでっか?」
「嘘です」
「スミマセン、シードにはもう話しかけないで下さい。たくさんの人が傷つきますから、ここにいないモノであるかのように扱ってやって下さい」
「はあ……」
「それにしても二人とも記憶力良すぎるんだよ。いや、記憶力以前の問題か。透視でも出来るんじゃねーの?」
「魔法で透視なんて出来るんでしょうか」
「さあ…どうなんですか?」
「透視なんか出来ないよ。それは超能力っていうの」
「魔法と超能力って別物なんでっか?」
「魔法は修業で身につけるもんだろう。超能力は生まれつきの力だ」
「けど、魔法が使えるかどうかってのも生まれた時から決まってるんだろ?
おんなじじゃねーのか?」
「あれは要するに素質ということだな。素質は努力して磨かなければモノにはならんが、超能力というのは初めから苦労なしに使いこなせるものだと聞いたことがある」
「超能力者なんか本当にいるのかね」
「あたしあっちこっち旅してるけど、噂ばっかりで見たことない」
「その噂もなんか魔法でやってそうなヤツばっかりなのよねぇ」
「魔法と超能力の境界ってのはどこにあるんでござるか?」
「うんと大雑把な言い方をすれば、呪文を使うか使わないかってコトだと思うんだけど」
「主観の問題だろう」
「あ! パイみたいなのがもうなくなった」
「完全に名前が消えましたな…」
「ヴァシルが食べ過ぎとるんだ。さっきから一言も言わずに一心不乱に食べているから」
「えっ? ヴァシルさん、さっき喋ったんじゃないですか」
「?」
「───まあ、どうでもいいじゃない、そんなコト」
あと一口分残ったティーカップを受け皿に戻して、チャーリーはメールの方を向く。
「十分休憩もとったことだし、そろそろメールの話を聞いとかないと」
キリがない。
言外にそう付け足すような気持ちで言って、メールに促すような視線を送る。
紅茶を一口飲んだきり何も口にせずに、手帳のページを繰りながら黙ってお茶の時間が終わるのを待っていた彼女は、自分の名前が出たのに反応してぱっと顔を上げた。
「メール、クローンッて何なの?」
チャーリーの言葉に、メールは大きくうなずいて手帳を閉じた。
「はいはい、それじゃあ説明を始めましょうか。そのために来たんですからね。皆さん、心の準備はよろしいですか?」
「心の準備って何だよ」
「自分で言うのもなんですがこれから相当に難解なハナシになりますから。皆さんのうちの半分ぐらいは途中でついて来れなくなるんじゃないですかね?
理解するのが無理だと思ったら遠慮なく席を外してもらって構いませんよ」
メールはさらりと言い放つと、何も言わずに自分に注目している一同の顔を視線だけで見回してから、また手帳を開いた。
開けたり閉じたり忙しないことである。
今度は一度で目当てのページを開けることが出来たようで、そこを開けたままでテーブルの上に手帳を置く。
「長いですよ」
ヴァシルの方を見る。
ヴァシルはその言葉に二、三度小さくうなずくと、静かに立ち上がった。
「よくわかった。それじゃあオレは外に出させてもらうぜ。食うモン食ったしな」
「えッ…ヴァシルさん、話聞いていかないの」
マーナが意外そうな顔で見上げる。
「ああ。どうせ聞いててもわからんからな。昼寝でもして来る」
長い髪をふわりと払うと、すたすたと歩いて食堂を出て行ってしまった。
マーナが戸惑ってチャーリーとトーザの方を見るが、二人とも平然とした顔で座ったまま何も言わない。
どうせヴァシルはややこしい話になると寝てしまうのだからいてもいなくても同じだと考えているのだろう。
「…オレも出とこう。オレにとっては相手がアンデッドだろうがクローンだろうが関係ないからな」
「そしたら、すんまへんけど、ワイも失礼しますわ」
ラルファグとコランドも立ち上がった。
当然と言えば当然のことであろう。
マーナはますます頼りない表情になって出て行くラルファグ達の姿を目で追っている。
「あ。待って、コランド」
廊下に出ようとしたコランドの背中に声をかけてから、トーザに目で合図を送る。
トーザはすぐに察して、懐から一枚の紙片−ガールディーの小屋で見つけた地図−を取り出した。
「これ、さっきの話に出た三枚重ねの地図。表の紙を剥がしてくれる?」
「ああ、そーですな。やっときますわ」
素早く方向転換して大股でトーザに歩み寄り、地図を受け取る。
その場で白紙を両手に持って広げ、窓に向けてかざして見る。
「なるほど、なかなかのモンですな。透かしても下にある図柄が全然見えませんからな」
「出来るでござるか?」
「まっ、ワイにまかしといて下さい。そしたらこれで」
地図を手にしたコランドが足早に退室したあと、イブが落ち着きをなくしているマーナに言う。
「私達も外に出てよう、どーせシードの話なんか聞いててもわかんないんだから」
「う…うん」
こうしてマーナとイブもビースト達を伴って出て行ってしまうと、室内の雰囲気は図らずもそれまでになく真面目なものになった。
残ったのは、腕組みしてメールの方を見つめているチャーリー、不思議そうにテーブルの上の手帳をのぞき込んでいるトーザ、膝の上に両手を揃えて置いて大人しくしているノルラッティ、何故か一人で緊張して背筋を伸ばしているサイト、温厚さの内にも一片の厳格さを秘めた瞳でチャーリーと同じ方向を見ているサースルーン、ホットミルクの入っていたカップの底を名残り惜しそうに眺めているゴールドウィンの六人と、チャーリーの後ろで翼を畳んでおすわりしているグリフの一頭、それに近くに座っていた人物が軒並み退場してしまったため一人ではずれにいる格好になったメール・シード。
「じゃあ説明を始めましょうか」
メールがにこっと微笑んで、椅子に腰掛け直した。
「生物はDNAという二重螺旋構造の二本の鎖状の物質によって支配されています。この二本の鎖には、生物の全ての情報が乗せられています。DNAは、新しい細胞を作るために複製されることがあります。この複製されたDNAをRNAと呼びます。DNAとはよく似たものですが、少し違った構造になっています。RNAからは生命の基本元素であるタンパク質が合成されます。新しい細胞を作るというのは新しいタンパク質を作るということですから。タンパク質を作れば細胞が作れる。生物というのは細胞の集合体です。生物を作るには、その生物を構成しているのと同じだけの細胞を作ればいいワケですよね」
メールの唇からは流れる水のように言葉が滑り出して来る。
チャーリー達は無言でその話に聞き入っている。
グリフだけが退屈になったのか、床に広がっているチャーリーの黒いマントの端をクチバシでつついて遊び出した。
「それでは、それだけの細胞を作り出すにはどうするべきでしょう。人間の身体を作っている細胞の数は六十兆ともいいます。それだけの細胞を作り出すだけの大量のタンパク質を準備する…それは非効率的ですね、大体そんなことは不可能ですから。DNAの九十五%はタンパク質からは出来ないものなのです。それでは…そうですね、タンパク質ではなくDNAを作ればいいんです。いえ、作るのはちょっと無理ですから…複製すればいいんですね」
メールは両手を上着のポケットに入れると、目を閉じた。
「それではその方法を簡単に説明しましょうか。DNAの情報をRNAに転写するRNAポリメラーゼという酵素があるんです。RNAポリメラーゼはDNAをそのまま写しとるのではなく、RNAの鎖を作れるように変換して写すのですが、それでもDNAのすべてを写してしまうワケではありません。量が多すぎますしね、リプレッサーというものがDNA上に出現してRNAポリメラーゼの働きをストップさせてしまうようになっているからです。リプレッサーの働きを防いでRNAポリメラーゼにDNAのすべてを転写させるのに、プライマーという短いDNAの鎖を使います」
チャーリーはうつむき加減で解説を続けるメールを瞬きもせず凝視し続けていた。
今自分が見つめている相手と同じ色をした瞳には鋭く複雑な光が宿っていた。
「プライマーを両端につなげば、RNAポリメラーゼはリプレッサーの妨害を受けることなくDNAのすべてを写しとります。このやり方はポリメラーゼ・チェイン・リアクションというのですが、まぁそれはいいでしょう。そうして写しとられてきたRNAをDNAに変換すれば、DNAが完全に複製されるワケです。…が、これは長い間不可能なことだと思われてきました。複製の働きの流れはタンパク質→RNA→DNAの一方向にだけ向くもので、その逆が起こることはあり得ないという考え−セントラル・ドグマというものが信じられていたのですが…実はRNAからDNAを作る方法はないこともないんですよね。これには逆転写酵素という特別な物質を用います」
さっきから苦労して手帳に書かれている文章を判読しようとしていたトーザは、ようやく読むことの出来た文面の内容の意外さに驚いてメールの顔を見つめた。
反対側からやっとのことで読み取った文章の断片…それは古代の叙事詩の一節で、今メールが話していることとはまったく関係のないものだった。
そう言えば、メールは説明を始めてからは一度も手帳を見ていない。
それでは一体何のためにあんなに自信ありげに手帳をテーブルの上に広げて置いたのだろう。ただ単に、そんな風に手帳をいじることがメールの癖なのだろうか。
「これで二重螺旋のDNAの一本が完全にコピーされるワケです。…で、これを残る一本のDNAの鎖に対しても行う…そして二重螺旋構造に戻す…こうして出来たDNAを特殊な溶液の中で培養してやれば、DNAは自身のもつ生体情報に基づいて分裂増殖を繰り返し、成長すると本体と全く同一の個体が完成するのです。DNAは皮膚の一片からでも髪の毛の一本からでも取り出せるものですし、クローンの細胞からもクローンが作れますから、私があのアンデッド兵士達の数を無限だと言ったのは誇大表現でも何でもありません。クローニングで誕生した個体は時間を操る魔法を用いれば半日ほどで成人するまでには成長させられるでしょう。邪竜人間族は人間族とは細胞分裂の速度が異なると思いますんで詳しくは今言いませんけど」
「…クローンは本体の記憶を受け継いでいるのか?」
ゴールドウィンが不意に言葉を挟んだ。
メールが目を開く。
若き国王陛下の灰色の瞳を射抜くように視線を合わせてから、
「まぁ、そうやって大人にしたところでクローンには経験というものがないんで頭の中は生まれたての赤ちゃんみたいなもんです。それでも運動能力を補助魔法で向上させて、指揮官の命令に絶対服従するように催眠術をかけておけば戦闘員になります」
「では、奴らは何故そのクローン兵士をアンデッドにしたのです?」
サイトがメールを見て質問すると、彼女は元気よくポケットから出した両手でぱたんと手帳を閉じて、首を少し傾けるようにして言った。
「一度殺してアンデッドにした方が使いやすいからでしょう。ネクロマンサーの支配力の方が、催眠術のそれよりはずっと上ですから」
「そんな…そんなことって…命をそんな風に扱うなんて、ひどい…」
ノルラッティがショックのあまりすっかり青ざめてしまった顔をうつむけながら囁くような小声で呟いた。
その言葉にサイトが小さくうなずいている。
「でも、便利ですよ。私が大量の戦闘員を調達しなければならない立場にあったとしたら、やはりクローニングを使いますね。それにクローンで作られた個体が本当の意味での生命をもっているかと言うと、これは意見の分かれるところじゃないですか。DNAイコール命とすると、少し違う気がしますね。何にしても皆さんはこれからそういうのを山ほど相手にしなければならないわけですから、下手な感情は抱かない方がいいですよ」
ノルラッティとサイトの方を向いて、メールは場違いなまでに明るい声で言い放った。
それがショックを受けた様子の二人を慰めようという意図の下に作られた口調でないことは誰が聞いても明らかだった。
サイトがメールを見返す。
彼女の黒い瞳は全く普段と変わりない様子でサイトを見つめ返した。
「数が多いのはどうとでもなるんだけど…」
唐突にチャーリーが口を開いた。
メールの視線がそちらに移動する。
サイトもそれにつられるようにチャーリーの方に顔を向けた。
「いくらでも補給がきくってのはかなり厄介だね。クローンの製造を止めるには…」
質問を皆まで聞かずメールは答えた。
「製造工場−というと語弊がありますか、クローニングの本拠地を捜し出して潰すしかないでしょう。DNAを育てるときに用いる培養液はかなり特殊なものですから、それをダメにしてしまえば容易に作り直しは出来ませんからね」
「おそらく…本拠地というのはエルスロンム城内にあるんでござろうな」
トーザが静かに言う。
チャーリーは短くうなずいた。
だとしたら、クローン兵士の生産を止めるのはすぐには無理だ。
ゲゼルク大陸は今魔界の霧で囲まれていて侵入がほとんど不可能な状態になっているうえに、ガールディーがいるかもしれないのだから。
ガールディーが他の場所にいるときを狙うか…?
どのみちゲゼルク大陸の状況がまるで分からない以上、乗り込むのは得策ではない。
…そう言えば、あのラーカとかいう名前の片腕のドラッケンが何か調べてくれるとか言ってたっけな。
彼の報告を待っても遅くはないだろう。
何をどう調べるのかは知らないが、それに一週間もかかることはないだろうし、こちらにはまだ二カ月半以上時間が残されている。
急いでわざわざ危険を冒す必要はない。
それよりも、今は宝石だ。
残り六つ…そして、あと三人の勇者を早く見つけ出さなければならない。
大人数で同じ所を探索に行くのは効率が悪いから、いくつかのパーティーに別れないと…最終的には誰がついて来るんだったかな…?
そこまで考えてから、ふとゴールドウィンの顔に目を留める。
「陛下はここへ何をしに来たんですか?」
「おお! すっかり忘れていた」
ゴールドウィンは夢から醒めたばかりのようなカオをチャーリーに向けた。
「魔道士チャーリーに話したいことがあってな、わざわざやって来たのだった」
「それはさっき聞きましたよ。で、ハナシッてのは要するに何なんです?」
「ああ、それはな…」
ゴールドウィンは王家の洞窟にある不思議に輝く宝石のことを説明し始めた。
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