第14章−2
(2)
カイラスはガールディーには類い稀なる魔道の力が潜在していると信じていて、自分のその考えをたとえ一瞬でも疑うようなことはなかった。
だから魔法の基礎さえ知らない彼に初歩の初歩の段階から教え込んでいくという地道な作業も苦にはならなかった。
カイラスが説明する様々な事柄を乾いた砂に水が染み込んでゆくようにたちまち理解して自分のものにしてしまうガールディーの成長ぶりを見るのは、むしろ楽しみなぐらいであった。
カイラスの屋敷に住み着くようになった当初は満足に読み書きも出来なかったガールディーが、それから一月と経たないうちに難解な古代言語で著された呪文書をすらすらと読みこなせるようになっているのを知ったとき、カイラスはガールディーの内に眠っている力が、彼の想像も自分の想像をも超える強大さを持っていると確信した。
そして、彼の一番弟子に対する期待をより強めるのであった。
しかし、そんな師匠の期待に反して、ガールディーは一向に『実際に魔法を使える』ようにはならなかった。
最高位の複雑難解な呪文をやすやすとそらんじることが出来るのに、最低ランクの攻撃魔法一つ発動させることは出来なかった。
どれだけ練習に練習を重ねてもまったく思い通りに成果が上がらないことに嫌気が差さないワケではなかったがガールディーもまたカイラスと同じく、自分の秘めたる力を今は信じていた。
地震というものは一旦起こってしまえば一瞬で大きな街をも一呑みにするが、起こるまでには地下深いところで気の遠くなるほどの年月、大地のエネルギーを集めているものだ。
また、雷は一撃で天を衝く大木をも消し炭に変えてしまえるが、稲妻となって天から降って来るまでにはやはり途方もないぐらいの時間をかけて大気のエネルギーを溜め込んでいる。
君の中に眠っている能力とはちょうど大地震や雷のようなものだ、その姿が現れるまでにはうんと長い時間を必要とするだろう。
焦らずにやれば良い。
君はまだ若く、前途は光に満ちているのだから。
カイラスはそう言い、魔道の勉強と並行して剣術の修業もやってみるようガールディーに勧めた。
適度に身体を動かすことはいい気分転換になる。
一日中書物の山の中にいたのでは、自分みたいな年寄りならばともかくガールディーのような若者にとっては特に気分が滅入ってしまうだろうから、と。
言われるまま遊び半分に手に取った剣の扱いに関して、ガールディー・マクガイルは天才的な腕前を示してみせた。
それまでロクに武器など持ったことのなかった彼が、カイラスの手ほどきを受け始めて一月後には師匠と互角に刃を交えられるようになっていた。
カイラス・ノーベルダウンがこれまで出会ってきた様々な人間を見渡してみても、ガールディー・マクガイルほどの《天才》は他にはいなかった。
彼は何をさせても超人的なレベルにいとも簡単に達してみせた。
槍術や格闘技等の肉体的な分野は言うに及ばず、絵を描いたり楽器を演奏したりといった精神的な分野でも卓越した才能を発揮し、その度カイラスを驚かせた。
☆
「テジャス・ド・ヴァイム!」
…気合の入った声で唱えてみるも。
突き出した手の先には何の変化もない。
魔道の素質があるなら十歳ぐらいの子供でも楽々使える初級の火炎魔法を、高度な魔法の知識を完全に身につけた自分が全っ然使えないのはどう考えようと納得がいかない。
カイラスの前では、まァ焦っても始まらねえよ等と余裕ありげに振る舞っているガールディーだったが、一人になるとどうしようもない焦燥感に居ても立ってもいられなくなる。
今日はカイラスの屋敷に来客があるので、ガールディーは一人こうして街外れの丘のふもとまでやって来てこっそりと魔法の練習に取り組んでいた。
「くそっ…俺って火炎魔法は向いてねーのかなァ…」
独りごちつつ、自分の手の平を眺めたりする。
もう何度も丘のふもとのこの場所に足を運び、何度も魔法を使おうと試してみては、その度こうして自分の手を見つめる、そんな一連の動作を繰り返してきた。
カイラスのもとに弟子入りしてからもう一年が経過した。
ガールディーは二十歳の誕生日を迎え、友人達からプレゼントにとなかなか上等な長剣を一振り贈られた。
杖ではなく剣を。
二十歳の誕生日に親しい人々から贈られた品がその人のその後の生き方を決定するのだという俗説があるのだが…剣は、違うような気がしてならない。
自分の本領を発揮出来るのは、やはり魔法でのような気がするのだ。
…こんなありさまでそんな気がするというのも妙なものだが。
「真空魔法なら何とかなるかもな…え〜と…」
初心に返って精神を統一させる。
「ヴァユ・ラ・ヴァイム!」
…やはり何も起こらない。
ガールディーは憮然として腕組みした。
「何が悪いってんだ、一体…」
そのとき。
大気がかすかな唸りをあげた。
鋭く聞きつけ、彼はハッと顔を上げる。
瞬間、ガールディーを中心にして風が渦を巻き、周囲の草を巻き込むようにして天空高く吹き上げて行った。
風にちぎられ降りかかってきた若緑色の草の切れ端を髪やら服やらにくっつけたまま、彼は呆然と頭上を振り仰いだ。
ざあっ、と草原を渡っていった風の音が耳に残っている。
「何だ…?」
自分の呪文が引き起こした現象ではない、とわかっていた。
魔法は術者が意図しない限りは呪文が唱えられた直後に発動するものだ。
誰かが近くにいる…?
ガールディーはゆっくりと四囲を見回した。
「…ごめんなさい。驚かせたかな?」
不意にそんな声がして、丘とは反対側に一本だけそびえていた木の陰から一人の少女が姿を見せた。
ガールディーと同じ漆黒の髪に、同色の瞳。
純白の法衣に身を包み、鮮やかな緋色の薄手のショールを肩にかけている。
「…さっきの魔法は、アンタが?」
「そう。あなたがさっき唱えたのと同じ呪文だよ」
少女は人懐こい口調で答え、にこっと微笑んだ。
優しく穏やかな笑顔だ。
しかし、ガールディーはその微笑の中にわずかに混じり込んでいる影のようなものを見逃さなかった。
「俺を馬鹿にしに来たのかい、お嬢さん」
知らずそう言葉を返していた。
無視してやってもよかったのだが…彼は彼女の微笑に暗い色を滲ませるものの正体に興味をひかれていた。
少女はガールディーのすぐそばまで一定の歩調を保ってやって来ると、両手を腰の後ろに組んで、小さく首を傾げるようにしてガールディーを見上げた。
「馬鹿にしたりなんかしないよ。あなたがいつも努力してるって、知ってるもの」
「えっ…」
ガールディーは一瞬戸惑った表情を浮かべ、
「…見てたのか、アンタ?」
苦り切ったような、照れ臭いような、何とも言えない顔で彼女を見下ろす。
「必ずってワケじゃないんだけど。私もよく来るんだ、ここ」
「この丘に、か?」
「丘もそうだけど…あの樹」
少女は自分がやって来た方を振り向いた。
ガールディーもつられるようにそっちに目をやる。
濃緑色の葉を青々と繁らせた大木がある。
幹はがっしりとして太く、枝は生命感に満ちあふれていて、まるで空を掴みとろうとしている指のようにたくましく伸びていた。
立派な樹だ。
今の今まで、特に意識したこともなかったが…。
「あの樹、気に入ってるんだ。素敵な樹でしょ?」
「…そー…かな。俺にはよくわからん」
くるりと向き直った少女の視線を何故か避けるように、ガールディーは左斜め上に意味もなく目線を投げた。
よく晴れた青い空が見える。
「ねえ、私、思うんだけどさ」
組んでいた腕に突然少女の手が触れて、ガールディーは仰天して彼女の顔を見た。
いつの間にか、思いがけないくらい近くに彼女が立っていた。
少女は胸の前で合わせたショールを左手で押さえ、残る右手を彼の左腕にかけていた。
「なッ…何だよ?」
「物事には全部適当な時期ってものがあるんだよね」
「……はあ?」
「だから、時期になってないのにいくらアセッたってどうにもなんないよ。どっちかって言うと、そんな無理はしない方がいい」
少女の指先の温もりを腕に心地よく感じながらも、ガールディーはただ呆気にとられて返す言葉を思いつけないでいた。
いきなり現れて自分にそんなハナシを聞かせるこのコは何者なんだ?
一体この女の目的は何なんだ?
そんな彼の様子には構わず、少女は言葉を続ける。
「大丈夫、いつがその時期なのかはちゃんとわかるようになってるもんだから。だからそのときが来るまで、もっと気楽にしてた方が絶対いいよ。イライラしながらやってたんじゃ、使えるものも使えるようにならないよ」
「…………」
どうやらこの少女、練習を重ねてもいっこうに魔法が使えるようにならない自分のことを見かねてこうして励ましに出て来てくれた…らしい。
しかし、どうしてこのコが出て来なきゃならんのだ?
一面識もない赤の他人が。
それに…このコの、妙に切迫した雰囲気は一体何なんだ?
知り合いでもない俺に対して、どうしてこんなに一生懸命な瞳を向けて来るんだろう…。
「あ。いきなりこんなコト言い出して、おかしな奴だと思ってるまなざしだ」
「いっ…いや…そういうワケじゃねえけど…」
「あなたがあんまり必死になり過ぎてるから…必死になること自体はいいんだけど、昔っから言うじゃない、『十分以上のものは多すぎる』『一つのものがたくさんありすぎても役に立たない』って。ね。自分にプレッシャーかけっ放しだと近いうちに壊れちゃうよ」
ガールディーが耳にしたこともないくらい古いことわざを引いて諭して、彼女は彼の目をまっすぐに見上げた。
ガールディーの腕からそっと手を外し、ショールを押さえている自分の左手に重ねる。
「それはそうなんだけどよ。───アンタ、一体何者なんだ?」
少女の指先が離れたところが何故か肌寒い。
ほんのわずかな温かさを懐かしむように、ガールディーは彼女との会話を続けようとしていた。
「私? 私は、シルフィア…シルフィア…・フーシェ。そう言うあなたは?」
「俺は…ガールディー・マクガイルだ」
無愛想に答えたガールディーの言葉に、少女−シルフィア−はくすっと笑った。
雪解けを呼ぶ春先の陽光のような柔らかい笑顔…。
シルフィアはまた両手を腰の後ろに組んで、目の前の相手を見上げた。
ショールが重なった部分は灰汁でもって磨き抜かれたような美しい水晶のブローチで留められている。
「何がおかしい?」
「ううん、別に…もう半年以上もあなたのこと見てたのに、今初めて名前知ったんだなって思ったら、ちょっとおかしくって、でも嬉しくって」
「?」
ガールディーは小さく肩をすくめて頭を左右に振った。
「…あなたの名前がわかってよかった。それに、あなたと話せてよかった」
シルフィアは不意に真顔になってガールディーの瞳を覗き込んだ。
出会いの瞬間に感じとった一抹の影が色濃く姿を見せる、黒く澄んだシルフィアの瞳。
急に真剣になった彼女の表情にたじろぎつつも、彼は努めてぶっきらぼうな口調を装い、
「さっぱり訳がわかんねーな…確かに名前はわかったよ。シルフィア。でも、一体何者なのかって問題がまだ残ってる」
「それは秘密にしておきたいなァ…」
シルフィアの表情がふうっと緩む。
先程の深刻さとは打って変わって、力ない微笑のようなものを浮かべ、ガールディーから視線をすいっと反らした。
「何?」
「どうせいずれ、わかるコトなんだから」
「何言ってんだ…」
アンタ、と続けようとしたガールディー、思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
シルフィアの瞳から透き通った涙の雫が一粒流れ落ち、頬を伝ったまさにその瞬間を目にしてしまったから。
「…?!」
腕組みしたままの右手をいつの間にか強く握り締めていた。
「ゴメン、ほんとに訳わかんないよね」
シルフィアは大慌てで涙を法衣の袖で拭いとった。
「アンタ…」
「ねえ、もう一回だけ私の名を呼んで」
「え?」
「私の名前」
「…シルフィア…?」
「ガールディー」
ガールディーの声を受け、それをそのまま反射するみたいに、シルフィアは彼の名を呼ぶ。
何か切羽詰まったような気迫を漂わせた、彼女の潤んでいるような一途な瞳への対処法がわからずに、それでも視線は外せないまま、ガールディーは右手をさらにきつく握り締める。
跳ね返すような彼女の声、まるで必死に、助けを求めているような…。
「…ガールディー…」
シルフィアはその名の響きを心に刻み込むように呟くと、また一筋涙を流した。
それから、それを素早く拭い去ってしまってから、
「ゴメンね、ほんとにおかしな奴で。もっと早くに声かけたかったんだけど。どうにも勇気が出せなくって。後が無くなってからしか、行動起こせなくって」
自らの動揺を押し隠すように早口でまくしたてる。
「後が無くなってから?」
ガールディーが訝しげに反復する。
シルフィアは無言でうなずくと、
「ああもうっ、この際だから言っちゃおう。…私、私ね…」
「?」
「初めてあなたを見たときから、あなたのことが好きでした」
「シルフィア…?」
「言わなきゃよかったかもしれない。でも、やっぱり…」
「おい、何なんだよ?」
「ゴメン。一方的で訳わかんなくって…でも、黙ってるなんて出来なかったし、私には今しかなかったから…想いは消せないよね。消すことなんて、出来ないよね。だから…とにかく、…あなたに会えてよかった」
「ちょっとは俺の言うことを…」
聞いたらどうなんだ、言ってやろうとして───ガールディーはハッと口を閉ざした。
目の前に立っている少女。
人間族ではない。
もちろん、善竜人間族でも邪竜人間族でもない。
今まで少女の突然の出現やその奇妙な言動に呆気にとられるばかりで気づくのが遅れてしまったが…この少女…シルフィア、彼女は…。
「エルフ…か?」
ガールディーの言葉に、シルフィアは脅えたように身をすくませた。
この世界のどんな生き物よりも長く生きる種族、『光』に愛された存在、エルフ。
だからこそ彼女は遠い昔の文献の中にしかもはや存在しないような古臭い言い回しを知っていたのか。
でも、今重要なのはそんなことではなくて…。
「黒い髪に黒い瞳…で…エルフ? アンタ、まさか…」
見つめるガールディーに、シルフィアは哀しげに小さくうなずいて、微笑ってみせた。
「さよなら。ガールディー…」
緋色のショールを翻し、やって来たときと同じ一定の歩調で去って行くシルフィアを、ガールディーはただ黙って見送ることしか出来なかった。
彼女は一度も振り返らずに最初に出て来た木の陰に消える。
彼は一度も呼び止めることなくその一部始終を見守る。
…そして、それきり、何も起こらなかった。
まるで最初から何事も起こってはいなかったかのように。
立ち尽くしたまま、ガールディーは自分自身に囁きかけるように掠れた声を漏らした。
「『光の具現者』……」
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