第13章−4
(4)
激しい雨の中を走って来る足音を耳にして、コートは反射的に顔を上げていた。
その視線の先に、メール・シードがいた。
メール・シードが。
コートには一目で分かった。
つんのめるようにして、大慌てで立ち上がる。
雨の中を突っ切ったメールはそのままの勢いでコートの胸の中に飛び込む。
コートの背中にしっかりと腕を回し、逞しいとはお世辞にも言えない彼の胸板に額を押しつける。
信じられない思いで、コートはメールのずぶ濡れの身体を抱き返した。
メールが顔を上げてコートを見る。
泣くまいとあんなに強く思っていたにも拘わらず溢れ出した涙でぐしゃぐしゃになった顔で、真っすぐにコートを見上げる。
常になく光を宿した瞳−その瞳は、紛れもなく、間違いようもなく、完璧に、絶対に…まだ髪が長かった頃のメールのものだった。
コートは衝き上げるような感情で胸が熱くなるのを感じた。
二度と手にすることは出来ないと思っていた大切なものが、今、この腕の中にある…。
メールは左手を離して眼鏡を外すと、何のためらいもなく背中側に放り投げた。
眼鏡は放物線を描いて石畳に落ち、粉々に砕け散った−雨の中に立ち尽くして二人の姿を見つめていたヴァシルのすぐ足元で。
「なんだよ…」
ヴァシルは水を含んで重くなり目の上に被さってくる前髪をバッと掻き上げ、唇の端を曲げて微笑する。
「やっぱオレの出る幕じゃねーんだよな、こーゆー問題は…」
一人呟く。
メールは再びコートの服に顔を埋め、両腕に全身の力を集めて彼の身体をきつくきつく抱き締めた。
「…メールさん…」
コートの口から呟きが漏れた。
───その他には、何も言えなかった。
ただメールの背中に回した自分の腕に、彼女に負けまいとするように力を込め───刹那、何故かコートは悟った。
何の脈絡もなく、直感的に彼は理解した。
メール・シードが自分の元へ帰って来たのではないということ。
メールはすぐまた自分の前からいなくなってしまうのだということ。
そしてそれはもはや変えられない運命なのだということ。
しかし、コートの心は不思議に穏やかだった。
もう随分と前からそんなことはとっくに予想していたんだとでも言わんばかりに平然としていた。
コートもそんな自分の感情をごくごく自然に受け入れていた。
この事態を認めてしまう自分を哀しく思いはしたけれど、その他には驚きも意外さもなかった。
「…コート」
メールが改めて顔を上げた。
「言い忘れてたお別れを…言いに来たよ」
ゆっくりと、ひどくゆっくりとコートを抱き締めていた腕をほどき、メールはコートから身体を離した。
「お別れ…ですか」
無表情にコートは反復した。
自分の声が他人のもののように耳に響く。
そこへヴァシルが近寄って来た。
これまで屋根の外にいたのだが、雨がいよいよ激しさを強め目を開けていられないくらいになってきたのでたまらず避難して来たのだ。
何気なくメールの顔に目をやったヴァシルの動きがぴたっと止まる。
蒼い目を見開き、無意識に彼女を指さし、何かを言いかけ−思い直して声を呑み込んだ。
そんな彼に気づいたメール、上衣の裾で泣き顔を乱暴に拭うと、
「初めまして、ヴァシルさん。私がメールです」
にこおっと微笑みかける。
無邪気な笑顔…ヴァシルは説明を求めるようにコートの方を見た。
コートは同じ視線をメールに向ける。
軽くうなずき、メールは二人を交互に見た。
すっと息を吸い込み、無理に装った明るい声で話し出す。
「説明するね、長いハナシは好きじゃないから、うんと短く、カンタンに。色んなコトはコートが考えて。細かいコトは、ヴァシルさん、宝石が揃う前にきっとわかります」
二人は黙ってメールの次の言葉を待つ。
メールは笑顔を絶やさぬまま続ける。
「まず、一つ。…私は死んじゃったんだ、コート。あっ、その前に! 私、ゴメンね、フェデリニになんて行ってない。ウソ、ついたんだ。仕方なかったの。本当は、海底神殿に行ったんだ」
「海底神殿…?!」
コートの顔色が変わる。
アイファム大陸の東、ゲゼルク大陸の南の海域、広大なその海中の底の底…世界の最下層にあると伝えられる建築物だ。
遠い昔から現代に至るまで、そこに到達する手段は発見されていない。
海底神殿が実在する建物なのかどうかということも未だ確認されてはいない。
そこに行った、とは…?
「海底神殿の番人だっていう、シェルって人が夢に出て来たの。コートも名前は知ってるよね」
無言でうなずく。
海底神殿の存在を陸の世界に伝えたとされるのが他ならぬそのシェルなのだ。
遥か昔、善竜人間族の最初の王であるバルムクルセイド・レイガートのもとに高貴な身なりをした不思議な人物が現れ、世界が始まる数千年も前から海底に在り続ける荘厳華麗な神殿について語り、またいずこへともなく去って行った。
長く美しい白い髪を持ったその人物は素性を一切明かさず、ただ、『シェル』とだけ名乗った。
「信じられないことなんだけど…私、『闇』に選ばれた戦士なんだって」
「!」
「それから、コート、君は『光』に選ばれた戦士。シェルさんはそう言った。だから、敵対しなくちゃならない。二人の気持ちなどは関係ない、これは運命なんだ、逃れることは出来ないんだって。片方が一方を殺すまで定めは消えない。もし運命に逆らって両方が存在し続けるなら、『光』と『闇』のバランスは狂い、世界は滅びる。私達は普通の人間じゃない、特殊な存在なんだって。…よく覚えてないけど、そんな風なこと、言ってた」
「………」
「ひどいよね、私達二人がただ生きてるだけで世界が滅びるなんて。……。私、コートを殺すなんて出来っこないし、コートに私を殺させるなんてことも出来るワケないし…どうすればいいかわからなくなって、正直に言ってシェルさんに泣きついたんだ。何とかしてって。そんな運命いらない、って」
メールは不意に顔を歪めると、堪え切れなくなったように視線を足元に落とした。
「シェルさんは言った…『身体が一つ要るんだ』って…」
「身体…?」
「あのね、私はコートを殺したくなかったしコートに殺されるのもイヤだった」
唐突にメールは繰り返した。
「心中ってのも嫌なの。二人で、二人で生きてたかったの。でも、それはもう無理なんだって。とんでもないハナシなんだけど、ちょっと信じられないようなハナシなんだけど、無茶苦茶なハナシなんだけど…どっちかがいなくならないといけないんだって、それは、絶対いなくならないとダメなんだって…だから、私───」
「メールさん、まさか」
それまで胸に支えていたものをいっぺんに吐き出してしまおうとしているかのような勢いで言葉を並べるメールを、青ざめた顔で彼女を見据えたコートの声が黙らせた。
ヴァシルは真剣な表情で成り行きを見守っている。
…コートが敢えて省略した台詞に向けて、メールは苦しげにうなずいた。
「…ゴメン。ごめんね。コートには、生きててほしかったんだ。私の分も生きててほしかったんだ。生きて、幸せになってほしかったんだ」
今にも泣き出しそうに弱々しい瞳で見上げたメールに、
「そんな勝手な理屈がありますかッ?!」
コートの荒々しい怒鳴り声が飛ぶ。
突然のコートの剣幕、ヴァシルも思わずたじろいだほどだ。
メールは殴りつけられたみたいに身を縮め、ぎゅっと目を閉じた。
「あなたなしで…幸せに生きろなどと…出来るワケが、…ないでしょう……」
無理矢理に感情を押し殺した声で、呻くようにコートは言う。
言ったものの───コートにはメールの気持ちが痛いくらいに分かっていた。
もし彼女の立場にあったなら、自分もまた同じことをしたはずだ。
自らの命を絶ち相手のこれからの幸福を願ったはずだ。
だから彼女を責めることは出来ない。
責めるつもりもない。
責められるワケもない。
それでも───。
「私が死ぬのなら、身体を貸してほしいって、シェルさん言ったの」
コートの思考を切り裂くように、メールの静かな声がその場の大気を震わせた。
雨を含み、寒いほど冷え切った四囲の空気。
「永遠に生き続けることの出来る、精神だけの生命体が、五人いるんだって。シェルさんもその一人。普段は精神だけの状態で目に見えないところにいるんだけど、世界に干渉するときは人の姿を借りる」
メールはそっと自分の胸に手の平を当てた。
哀しげに微笑する。
「いま私の身体の中にいるのがその内の一人。シェルさんじゃない他の誰か。…自分で、身体を使って下さいって言ったんだよ。だって、このまま行くと世界は破滅するかもしれないんだって。私、コートに幸せに生きてほしいと思ってるのに、世界が滅びちゃうのは困るんだもん」
「………」
「世界を救うために身体が必要なんだって。シェルさんは海底神殿に残ってなきゃいけないらしいんだけど、他の四人は世界を破滅させないために行動を開始するんだって。私の中にいるこのヒトが、…これからコートの生きるこの世界を守ってくれるなら…コートと戦ったりしなくちゃならないハメになるその前に……」
「………」
コートは口にするべき台詞を失い、ただメールを見つめていた。
もう何も言えない。
もう何を言っても仕方がない。
自分のいない所で、自分の知らない所で、引き返せないところまで話は進んでしまっていた。
コートは完全に置き去りにされた格好だ。
メールの判断は間違ってはいない。
それどころか考え得る限りの最高の選択だったようにコートには思えた。
愛する人の命を救うために自分の命を捨て、愛する人の生きる世界を守るため自分の身体をも捨てた。
それは言うほど簡単なコトではない。
「シェルさんはいつかコートにお別れを言う機会をくれるって言った。それが今…この雨は、シェルさんの降らせてる魔法の雨。この雨の降ってる間だけ、私は私でいられる」
「雨が止んだら、…あなたはどうなります」
コートの問いかけに、メールは黙って首を横に振る。
「わかんない。もしかしたら今度こそ死ぬのかもしれない。わかんないよ」
「今まで、あなたは…?」
「この身体の中で眠ってた。ひょっとするとその状態に戻るのかも…シェルさんは何も教えてくれなかった」
「そうですか…」
コートが呟いたとき。
「おお、そうだッ!」
突如、ヴァシルがぽんと手を打った。
わざとらしいことこのうえない。
「チャーリー達もコート探してんだよな、早く大丈夫だって教えてやんないとな。そんじゃま、そーゆーコトだ、オレはこれで」
「あ、あの、ヴァシルさん」
呼び止めるメールに、
「気にすんなって、それより仲良くやれよ、お二人さん!」
言い捨ててヴァシルは雨の中に駆け出して行った。
豪雨の中にすぐその姿は見えなくなる。
コートとメールは顔を見合わせた。
「…気を遣ってくれたのかな」
「さあ…?」
首を傾げる二人。
ともあれ、海底神殿の番人が降らせているという雨はもうしばらくは止みそうにない。
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